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ムスビと「発生」・「なる」

日本文學が、出發點からして既に、今ある儘の本質と目的とを持つて居たと考へるのは、單純な空想である。其ばかりか、極微かな文學意識が含まれて居たと見る事さへ、眞實を離れた考へと言はねばならぬ。古代生活の一樣式として、極めて縁遠い原因から出たものが、次第に目的を展開して、偶然、文學の規範に入つて來たに過ぎないのである。

折口信夫 「國文學の發生(第一稿)呪言と敍事詩と」

 折口民俗学にて用いられる、「発生」という語。ここには手を加え、造り上げるという響きが欠けている。自ずから成る、という感覚が近いように感じられる
 『歴史意識の「古層」』を通して丸山眞男は、日本人における「なる」意識の過剰を問題視していた。自然のうちに宿る、霊力の絶え間ない成長・増殖。そのさまは記紀神話に生き生きと描写されている。

 折口は「高皇産霊神・神皇産霊神、即むすびの神」を、「霊魂を与へるとともに、肉体と霊魂との間に、生命を生じさせる」神々と解釈している(「神道の新しい方向」)。「さうすると魂が発育するとともに、それを容れてゐる物質が、だん/\育つて来る。物質も膨れて来る。魂も発育して来るという風に、両方とも成長」する。いわばムスビが、「発生」≒「なる」を可能としているのである。

 「自然」なる観念を賞揚する国学が土着のブルジョワジーによる産物だと言うことはできるかもしれない。しかし「なる」意識の存在を完全に無視することはできないだろう。考えられるべきは、「なる」一元論に回収することのできない、日本人の「古層」の豊穣なのではなかろうか。そういう意味で折口信夫は、「なる」に対するムスビの優位という、彼なりの回答を導き出していたのだ。


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