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ホイジンガの「遊び」と神道における祭り

 遊びは「ありきたりの」生活でもなく、「本来の」生活でもない。そこから一歩踏み出して独自の性格をもった活動の仮構の世界に入るのが遊びだ。

ヨハン・ホイジンガ「ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み」
里見元一郎訳 講談社学術文庫 2018年

 ホイジンガのいう「遊び」はエリアーデが論じるような「永遠回帰」ではない。本来性は志向されておらず、「そこから一歩踏み出し」た、「仮構の世界」と戯れるのである。ホイジンガは祭礼もまた、「遊び」の一種として論じているが、僕はここに、神道における祭りの精神と似通ったものを発見するのである。

 第三に、第二の現象型と不可分な問題、即ち新概念の多用化傾向について述べておきたい。これは単に、西洋の学説に追随している日本の現状を示すだけではなく、それによって恰も学問が進歩しているかのような錯覚をもたらす点、より警戒を必要とするからである。或はこれが適切な事例であるかどうか、 筆者にも十分な自信はないが、例えばエリアーデのいわゆる永遠回帰の理論を考えてみよう。筆者は直ちに、復古神道論と呼ばれた幕末維新の運動を連想する。その精神は、復古即維新にあった。ところが一般には、それが 文字通り歴史的古代を再現するための運動 だったと理解されることが多かったのである。同様に、回復された神聖な過去、原初の時への回帰が祭の精神であり、祭の目的であるという理解を、神道の祭にも適用することは、筆者には疑問に思われてならない。何故なら、祭による生命力の更新は、決して原初への回帰ではないからである。

上田賢治「神道神学 組織神学への序章」
株式会社大明堂、昭和63年、47頁

 もちろん上田賢治が述べるように、ホイジンガの概念を無批判に取り入れることはあってはならず、警戒を要する。ホイジンガの「遊び」概念と神道における祭りの精神の比較は、今後さらに深められなくてはならない。

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