ホイジンガのいう「遊び」はエリアーデが論じるような「永遠回帰」ではない。本来性は志向されておらず、「そこから一歩踏み出し」た、「仮構の世界」と戯れるのである。ホイジンガは祭礼もまた、「遊び」の一種として論じているが、僕はここに、神道における祭りの精神と似通ったものを発見するのである。
もちろん上田賢治が述べるように、ホイジンガの概念を無批判に取り入れることはあってはならず、警戒を要する。ホイジンガの「遊び」概念と神道における祭りの精神の比較は、今後さらに深められなくてはならない。
2684.06.30追記
「遊び」と祭りの精神は厳密には異なる。「遊び」は虚構としながらもその対象と戯れる。ただし両者ともに、未来における創造に目を向けている点は共通していると言っていいだろう。