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猫の夜語り

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猫の紡ぐ、束の間の物語。
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紅葉を踏む

紅葉を踏む

 この世が真っ新になってしまえばいい。神か仏のどちらかが、我が願いを聞き入れてくれたのかと思った。土御門惟雄が侍従に叩き起こされて、外へ出てみれば、一面雪化粧の有様であった。あまりの美しさに、「おお……」と月並みな反応をしていると、先に出ていた乳兄弟である高倉朝綱が彼を呼んだ。
 父に似て、いつも落ち着き払った強面の朝綱が、この日はどこか冷静さを欠いていた。何かへまをする、というのではないが、いつ

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光明

光明

 ちかっ、ちかっ、ちかっ、ちかっ……。
 電球が切れかかったみたいに、薄暗い部屋が明滅する。腹の内側から、体全体に熱が広がって、その後から快楽が押し寄せてくる。飲まれる。吐き出した息は短く途切れ、そして止まる。止めざるを得ない。
 体から力を抜くことが出来ない。震えて、跳ねて、もう一度大きな波が来る。
 今夜は何度、果てることが出来たろうか。
 ベッドの上で満足げに眠る男の顔を見て、美鶴は思う。幾

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指切りと天秤

指切りと天秤

 夕暮れ時の路地裏は、表通りよりも一足先に宵闇の中へ沈みこもうとしていた。頭上に聳えるコンクリートの壁は、橙色の光に染められていたが、弦の立っている道の上は、すでに青みがかった影が淀んでいた。
 どこをどう歩いてここまで来たのか、記憶が定かではない。珍しく定時に仕事を切り上げることができ、古びたオフィスビルの重い扉を押し開けたところまでは憶えているが、果たしてその後、どのような道を歩いたのか。
 

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みちづれ

みちづれ

 早朝の山道は濃い霧に満ちていた。山の麓で目指すべき頂を見上げたときは、まだ藍色だった空も、今は日の光によって乳白色に変わりつつあった。とはいっても、生い茂る木々の肌や一寸先すら見通せない霧はまだ青みがかったままだ。
 喜一郎は不意に襲ってきた、後ろを振り返りたい衝動を抑え、シャベルを杖代わりにして、ぬかるんだ山道を下っていった。今朝方着替えたカーキのズボンは、朝露ですっかり膝まで濡れてしまってい

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相応しい花

相応しい花

 河川敷を歩いていると、緑の草地の中に赤茶けた花弁が揺れているのを見つけた。見慣れた緑の中に浮き立つようにして見えるその花の名を思い出すのに、私はしばしの時間を要した。
「曼殊沙華……」
 もうそんな季節なのか、と思う私の頬を爽やかな涼風が撫でていった。
 彼岸花、という悲しげな響きよりも、天上の花の一つとして挙げられる「曼殊沙華」の呼び名の方が私は好きだった。放射状に咲き誇るこの花に相応しい名だ

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甲羅の中の宙

甲羅の中の宙

 目が覚めたら僕は、星空のど真ん中にいた。
 紺碧の暗幕の上に鏤められた色とりどりの光が瞬いている。僕は呆気に取られたまま、ものも言えなかった。
 さっきまでベッドの上でスマホを眺め、明日の一時間目の授業で小テストが強行されるという同級生からのLINEに目を丸くしていたのだから当然だ。僕は身を起こして(と言っても、どちらが上なのか定かではないけれど)、辺りを観察することにした。
 360度、どこを

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炉心の曰く

炉心の曰く

 金属と金属が擦れ、ぶつかり合う音が響く。粗末な骨組みと薄い鉄板の壁で作られた巨大な箱の中は薄暗く、様々な機械が並んでいる。その傍では工夫が忙しなく働いていた。
 それぞれの機械から伸び、工夫たちの頭上に張り巡らされた配管の上を走り去る一つの影があった。淡い照明に少年の横顔が一瞬、照らされる。工夫たちの統率を任されている憲兵が、配管を伝う影にさっと視線を走らせた。
「鼠か……?」
 憲兵は怪訝に呟

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氷解の鐘

氷解の鐘

 分厚い雲が覆う空を見上げて、クルトは一つ長く息を吐いた。白く凍った息は風に棚引き、やがて消えていった。その先に、高く聳える塔がある。
 時計塔、呼ばれる建物だった。今年一三になるクルトが生まれるよりも前――彼の祖父の祖父の、そのまた祖父が生まれるよりもさらに昔――に建てられたという、石造りの巨大な塔であった。
 誰が、一体何を目的に建てたのか。今となってはわからない。〝時計塔〟と呼ばれるのは、塔

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電子の海で鐘は鳴る

「その名前、めっちゃ皮肉だよね」
「え?」
 少しだけ遠い声に、僕は訊き返す。短い笑いの後、彼女の声が言った。
「数打ちゃあた郎って、エイム半端ないのにさ」
 『数打ちゃあた郎』。最近続けざまに登場したバトルロワイヤル形式のオンラインゲームで使っている、僕のプレイヤーネームだ。基本的に一撃必中を心がけている僕は、スナイパーライフルしか使わない。無駄弾は使わない主義だけれど、だからこそこの名前は気に

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咢に呑まれて

咢に呑まれて

 ――面白いものを見せてあげよう。
 父親とそう変わらぬ歳の文弘が、美由紀を誘うときの決まり文句がそれだった。紺碧の空いっぱいに瞬く星々や真っ黒な海に沈みゆく落日、物珍しい絵画が並ぶ美術館や博物館――数えればきりがないほど、文弘にはいろいろなところへ連れていってもらっていた。それこそ、実の父親以上に。
 今夜もまた、自分の気に入った場所に美由紀を連れていってくれるのだろう。そう思うと、五十半ばのこ

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叶わぬ贖罪

叶わぬ贖罪

 車内アナウンスが駅名を告げた。ドアが開くとドッと人が乗り込んできて、あっという間に満員になってしまう。夕刻のこの時間は皆、どこか疲れた顔をしていた。
 ビル群の向こうに沈んでいく日の、オレンジの光に目を細めながら、美代もまた疲れの滲んだ顔を窓に映していた。少し早めの帰路に着くスーツ姿を眺めて、ふと久男の顔を思い出した。結婚四年目。今年で互いに四十二になる。彼もまた、目の前に並ぶ男たちと同じような

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食べちゃいたいくらいに

食べちゃいたいくらいに

 林のようになっている場所がある。そこは公園の北側にあるせいで、一日中日が当たらず、降り積もった落ち葉のせいで空気も湿っていた。そんな辛気臭い雰囲気のせいで、その林は作られた当初の目的を果たせずにいた。
 しかし、街で一人だけ、その不気味な林を気に入っているらしい少女がいた。名前はユーリ。年のころは一〇歳である。彼女は毎日、林の中へ足を運んでは夕方になるまで出てこなかった。
 街の人々は心配してい

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夜

 寝室。家の中で、順が一番嫌いな場所だった。思えば子供のころから嫌いだったかもしれない。暗く、静まり返った部屋に聞こえるのは、シーンという一定の高さを保った微かな音と自分の寝返りが立てる衣擦れの音だけだ。
 それが〝自分は孤独なのだ〟と強く意識させてくる。
「……はあ」
 いつ頃からか、順は眠れなくなっていた。体は怠いし、頭もぼんやりとする。けれどもなかなか寝付けなかった。
 初めはそうこうしてい

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蜥蜴

蜥蜴

 ソファに身を凭れさせると、その上にシンシアがこちらを向いて腰を下ろした。赤く色づいた妖艶な唇が笑みに歪んだかと思うと、それが自分の唇に押し付けられていた。
 吐息混じりに唇を離すと、彼女は蕩けた瞳で見つめて、
「ねえ、アンドレ?」
と言った。
「何だ」
 微笑み張り付け、『アンドレ』は答えた。その白い頬に武骨な指を這わせ、彼女がじゃれついてくるのをひたすらに眺めていた。誘うような視線が『アンドレ

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