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蜥蜴

 ソファに身を凭れさせると、その上にシンシアがこちらを向いて腰を下ろした。赤く色づいた妖艶な唇が笑みに歪んだかと思うと、それが自分の唇に押し付けられていた。
 吐息混じりに唇を離すと、彼女は蕩けた瞳で見つめて、
「ねえ、アンドレ?」
と言った。
「何だ」
 微笑み張り付け、『アンドレ』は答えた。その白い頬に武骨な指を這わせ、彼女がじゃれついてくるのをひたすらに眺めていた。誘うような視線が『アンドレ』に絡みついてくる。
 視線と共に、彼の腰に細い腕が絡みついてきた。それは徐々に下へと降りていって、ベルトへ達した。金具を慣れた手つきで解いて、しなやかな指がジップを下ろしていく。それには構わず、今度は『アンドレ』が彼女の頭を引き寄せ、小ぶりな唇に貪り着いた。
 湿った音を狭い部屋に響かせながら、『アンドレ』はシンシアの着ている服を一枚ずつ焦らすように剥いでいった。
「ふふふ……」
「どうしたんだ?」
「貴方に脱がされるの、好きよ」
「誰に脱がされようと同じだろう?」
「違うわよ」
「どう違うって?」
「……ドキドキしちゃう」
 そう言ってシンシアはまた唇を重ねてきた。彼女はまだ、ズボンの中に手を入れて、パンツ越しにしか触ってこない。それがもどかしく、『アンドレ』のモノは徐々にしか滾ってこなかった。
 ひくりと動くたびにシンシアはからかうような笑みを見せた。まるで赤子をあやしているような表情であった。
「すいません」
 乱暴なノックで、二人の甘いひと時は終わりを告げる。
 一瞬目を丸くしたシンシアであったが、すぐに不機嫌な顔になって『アンドレ』の目を見つめる。
「誰かしら。もう夜中よ?」
「さあな。ちょっとトイレに行くから、君、出てくれないか?」
「何それ! 私のこと丸裸にしておいて……」
「ほら、頼むよ。君のせいで、爆発しそうなんだ」
 おどけながら、シンシアに毛布を渡す。
「馬鹿ね」
 彼女は膨らんだ『アンドレ』の下半身を見て、小さくはにかんだ。
 彼がトイレに入るのを見送って、シンシアは大きく溜息を吐いて毛布に包まると、エントランスへ向かった。
「すいません。少し、お話を伺いたいのですが」
 くぐもった男の声が言った。
「すいません」
 頻りにドアを叩いてくるので、シンシアもうんざりして声を張った。
「そんな何度も叩かなくても聞こえてるってば! すぐに行くから待ってて!」
「ああ、よかった。すいませんね」
 男はしつこいほどに謝ってくる。それならこんな夜更けに幾度もドアを叩くのはやめてほしい。
 勢いよく開いたドアは、すぐ向こうにいた警官の腹を押し退けた。シンシアは睨むように彼を見上げて、首を捻った。眉間に皺を寄せ、彼の背後を見遣るとまだ二人の警官が立っていた。
 一人は切れ掛かっている電灯を怪訝に見上げていた。もう一人は女で、あられもない姿で立ち尽くすシンシアに軽蔑にも似た目を向けてきた。
 そして、ドアを叩いていた警官はシンシアの姿など全く意に介さずに部屋の奥を無遠慮に覗き込んでいた。
「どうも、こんばんは。夜分に申し訳ございません。私、この辺り一帯を担当させていただいております、フランコと申します。こちらはホークスアイ」
 フランコは電灯を見上げていた男を指して、次に女の方を向いた。
「そして、こちらがマネキンです」
 紹介された二人はそっと会釈をした。シンシアはそれには返さず、フランコを睨んで訊ねた。
「で、警察が何の用なの?」
「ええ、それなんですがね? ここに『アンドレ』という男がおりませんか?」
「それが何?」
「彼にですね、ここ最近発生している犯罪に加担しているという疑いが掛けられておりましてね? 少しお話を伺いたいな、と」
「……彼が犯罪? そんな馬鹿な」
「そう。そんな馬鹿な話があるはずもありません。しかし、世知辛い者でしてな……掛けられた疑いは晴らさねばならんのですよ。何事もなければ、私たちも早く帰れます。もう夜も遅いですから、眠くて仕方がない。お二人もこんなくだらないことで時間を取られたくはございますまい?」
「……わかったわ。入って」
 シンシアは怪訝に眉を顰めつつも、フランコたちを部屋の中へ招いた。
「彼、今トイレにいるの」
「ヌいているのかい?」
 ホークスアイが下卑た笑みを浮かべて訊ねる。シンシアは特に何も答えずに、リビングルームへと三人を通した。
「ああ、すいません。一応、念のためにホークスアイをトイレの前に立たせておきます。何もないのは承知の上です。しかし、職務上そうするよう決められております。万全を期していた、ということが重要なのです。後で様々な方面からお叱りを受けないようにね」
 フランコは誤魔化すような笑みを浮かべて、肩を竦めた。そして、後ろに突っ立っていたホークスアイに鋭く目配せをした。下卑た笑みを浮かべたまま、彼はすぐさまトイレの前に陣取った。
「さて、彼についていくつか訊ねたいのですが……。そうですね、まずはお二人の関係から」
「見てわからない?」
「……男女というのは不思議なもので、裸で抱き合う仲に愛があるとも限らないものでしてね。ええと、つまり――」

「娼婦かどうかってことよ」
 マネキンが呆れたように言い切った。フランコは曖昧に微笑んで、シンシアに答えを促した。
「どうだっていいでしょう? 金で買われたのか、騙されたのか、はたまた本当に愛し合っているのか。それが何か重要なの? 私も共犯者だと思われてるの?」
「主犯の男は自ら手を汚さず、女に犯行を命じているらしいことはわかっているの。それが雇われてなのか、騙されてなのかは大した問題ではないわ。今は、貴方と一緒にいた『アンドレ』がその主犯の男かどうかなの。だからそこで知り合ったのかとか、そういう関係を知る必要があるのよ」
 マネキンは諭すように、しかしどこか厳しい口調で言った。
 シンシアは気怠げに頷いて、煙草を一本抜き取って火を点けた。そして、対面に座る二人に向かって、煙を吹きかけた。フランコは煙を避けようと仰け反ったが、マネキンは微動だにしなかった。
「おい、しっかり見張ってろよ?」
 フランコがトイレの前に立っていたホークスアイに叫んだ。
「そんなに大きな声で言わんでも聞こえてますよォ」
 呑気に答えて、彼は大きな欠伸をする。苛立たしげにぶつくさ言いながら、フランコはシンシアに向き直った。
 シンシアは煙草を灰皿に押し付けると、すくっと立ち上がる。
「果物はお好きかしら?」
「ああ、お構いなく」
 フランコが遠慮するのも聞かずに、彼女はキッチンから果物の盛られた籠とナイフを持ってきた。ソファに座り直し、林檎を剥き始める。
 シャリ、シャリ、シャリ……。
 丁寧な手つきでシンシアは林檎を剥き、フランコはそれをじっと見つめていた。一口大に切り分けた林檎を空いていた皿に盛りつけると、二人の警察官の前に差し出した。
「どうぞ」
「これは、すいません」
 フランコは脱帽し、そっと皿に手を伸ばした。マネキンはシンシアを警戒するような目つきで一瞥したが、上司の後に倣って一欠片摘まんだ。
 その瞬間、シンシアが突然立ち上がって、ナイフを逆手に持ち替えた。
 まさに一瞬の出来事であった。シンシアが音もなくナイフを振り上げたのと、フランコの膝に置かれた帽子が銃声と共に跳ねたのとは、殆ど同時だった。包まった毛布に小さな銃創ができる。じわり、と赤黒い染みが滲み、シンシアの口からも血が溢れた。
 フランコの帽子が床に落ち、シンシアの躰がどたりと斃れた。
「ホークスアイ! こじ開けろ!」
「もうやってますって!」
 フランコの指示を待たずして、ホークスアイはこじ開けたトイレに踏みこんだ。そこにはすでにもぬけの殻であった。天井を見上げると点検口が押し開けられていた。
 ホークスアイは便座に足を掛け、点検口を覗き込んだ。
 暗闇の先に、小さな光が見える。こちらと同じ点検口の蓋が少しだけずれていたのだ。ホークスアイは慌てて、部屋にいる二人に向かって叫んだ。
「隣です! 隣の空き部屋にいます!」
「馬鹿野郎! 逃げられたんだ! 降りるぞ!」
 フランコの声が返ってきて、ホークスアイはこれまた大声で返事した。
 二人のところに戻るため、彼は点検口から出していた頭を引っ込める。――その背後に目的の男がいることも知らずに。

 暗闇の中で、『アンドレ』は三人分の足音が遠ざかるのを待った。部屋の中に気配がなくなると、彼は慎重に慎重を重ねて、部屋に降り立った。すぐには部屋から出ず、まずリビングへと向かう。
 血に染まったソファの上で、シンシアは眠るように死んでいた。
 これで何人目だろうか。心は痛まない。彼女もきっと、今日がその日だとわかっていたはずだ。仕事のない日は、切られ時だと。
 しかし、彼女の死相はこれまで連れ添ったどの女よりも穏やかで、美しかった。
 『アンドレ』はソファに腰を下ろし、そっとシンシアの髪を撫でた。半分開いた目は虚空を見つめている。
「俺の、本当の名を教えてやろう」
 人間が死にゆく中で、最後に失われる感覚は聴覚だという。
「俺の本当の名は――」
 冷たくなった耳元で囁いた『アンドレ』は、シンシアの瞼に手を添えて、そっと閉じた。
 遠くでサイレンが聞こえた。『アンドレ』はコートを着込むと、襟元をぴったりと合わせてエントランスのドアを開けた。夜風が吹き込み、コートの裾を閃かせた。
 アパートを出ると、彼は隣の建物の間に通る路地へと消えた。

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