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「主観」は科学的に応用できるのか

客観性の落とし穴

先日こんな本を読みました。誰かに勧められたというわけでもなく、ただ知人が読んでいる、と聞いて読んでみました。

「客観性の落とし穴」, 村上靖彦, 筑摩書房, 2023年6月8日出版

筆者は、精神分析学・現象学者であり、大阪大学教授である村上靖彦さん。看護・福祉・ヤングケアラーといった領域における書籍を複数出されている方で、そういった現場に関わるプロとしての視点を取り入れながら、客観性や数値を過度に信用することの危うさなどについて記載されています。なお、筆者は客観的であることや定量的な学問を否定しているわけではなく、あくまで過度に客観性や数値に信頼を置くことのの危険性を語っていると理解しました。

書評できるほどの知識やスキルは持ち合わせていませんので、そういったことはここではおこないません。ただ、純粋な一読者としては、客観性や定量的なものを重視する論調が主流になる中で、そこからこぼれ落ちるものがある、という全体的な主張には賛同できると思いました。

心理学とは、ある事象データを統計などを用いて「客観的」に分析することが重要な役目を果たす学問と理解しています。一方で、インタビューなどを重ねることで「主観」とそこから示唆を紡ぎ出すことも同時に重要となる学問と認識しており、そういった学問を学ぶ身として理解しておいてよいエッセンスが記載されている本だと思いました。

自分の主観を自覚する

上記の書籍を読み、自分が最近テーマにしていることとの繋がりを感じました。それは、多くの方が普段の生活や仕事の中で、自分の主観に無自覚になってはいないか、そして、無自覚であることで知らず知らずに苦しい思いをしていないか、ということです。

蓋然性や説明のしやすさ、社会的な体裁のよさ、そういったものに頼りすぎて、自分が心からどうしたいのかを考えていなかったり、結果的に、自分を好きになれなかったり、仕事にやりがいを感じなかったり、そんな煮え切らなさを抱えている人は少なくないのではないかと思います。私自身、たまにそんな自分を見つけるときがあります。

先日以下のnoteを読んで共感したのですが、「主観に無自覚になっている」に通じる部分があるのかなと思います。

以前仕事で、企業で働く方のキャリア開発研修を担当させていただいたことがあるのですが、「自分が何をしたいのかわからない」、という方が結構います。人間ですのでそれ自体けっして変なことではないと思うのですが、若い方と比較的キャリアを積まれてきた方の間で「わからない」の性質が少し違うように感じました。

比較的長くキャリアを積んできた方、特にひとつの会社でキャリアを築いてきた方に、ご自身のキャリアビジョンを伺うと、所属する会社のビジョンと全く同じようなこと、まるで目標設定面談でのある種の「正解」のようなものを自分のビジョンとして語られるケースが複数ありました。もちろんそれが素直な気持ちで、実際に個人の想いと会社のビジョンが完全一致している方もいるとは思います(そして、それはとても幸せなことだと思います)が、よくよく個人的な想いのようなものを伺っていくと、考えたこともない質問でわからない、とおっしゃるのです。

先日の投稿で、自分の思いに正直になるのが難しい、ということを書きました。少し言葉足らずだった気がするのでこの投稿を持って補足としたいと思いますが、私自身も、生活や仕事の中で知らず知らずに自分の主観に無自覚になり、何か客観的な無難さを求めてしまったり、他人の言葉を使って人を説得しようとしたり、社会的な体裁の良さを優先して自分の気持ちに整理をつけようとしていることがあると感じています。もしかすると、長くキャリアを築かれてきた方の中にも、社会からのいろんな期待に応える中で、自分自身の思いに少し距離を置いてきてしまった方がいるのかなと思いました。

わたしの先日の投稿はこちら↓

主観を打ち明けることの大切さ

なぜ私たちは主観で選択したり、主観を言語化することを避けることがあるのでしょう。

あくまで個人の経験値からの見解ですが、主観を打ち明けた上での、相手や所属するグループからの否定や排除が恐いからなのかな、と思います。人間が社会的に暮らしていく中で、いきなり全てを自分の思う通りに言動に変えるのはリスクが高いのかなと。

ただ、一方で、認識しなければいけないとも思うのは、人が社会の中で「受け入れられた」と思うには、主観を吐露するプロセスが欠かせない、ということです。

コーチングを専門とする友人は、人が何か共同で物事とを成し遂げる上で、当事者同士が主観を打ち明け合うことが非常に大切な作業だと言っていました。当事者が思っていることをまず打ち明け合い、それに対してどう思うかまた互いに語り合う。そういったプロセスを挟むと、その後のやりとりがとてもスムーズにいくのだそうです。

難しいですね。円満でいたいからこそ発言には気をつけるけど、ずっと気をつけすぎていると本当の円満は来ないという形です。「ここでは自分らしくいられる」とまで思えるほどの関係性を他人と築くことは、そういった観点で難しいのだと思います。だからこそ、そういう状態を意図的に生み出せるプロフェッショナルコーチの方などは、職業として成り立つのだと思います。

ちなみに、最近組織心理学に関する書籍を読んでいて個人的に発見だったのは、このプロセスと同様のものが、1対1のみならず、複数対複数として、グループの軋轢を緩和することにも適応し得る可能性があるということでした。

“Intergroup Therapy”, Blake and Mouton, 1962

https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/002076406200800304?journalCode=ispa

主観を共有しあうことは、対人、対組織の中にあるギスギスを和らげるにもなるし、自分らしく働くことや、人と人とがよりイノベーティブに関わることの一つのポイントにもなるということかと思います。そして、主観の相互共有が自然にできる関係性が、心理的安全性の高い関係性なのではと解釈します。

そんなことを思っていたら、「まさに」という記事をコーチング会社の発信に発見しましたので、備忘としてそちらも掲載します。

「『主観』の可能性」, 有吉祐介(株式会社コーチ・エィ), 2021年06月23日

「コミュニティ」の可能性

では「主観を相互共有できる」関係性とはどのように構築していけるのでしょうか。

一つの可能性として、個人的に気になっているものに「コミュニティ」というものがあります。

コミュニティというものが、学問の世界などでどのように定義・解釈されているのか、現時点では知識がないのですが、私が着目しているのは「必ずしも他人から与えられた役割を元にした人の集まりではなく、特定の事象や課題への共通意識を元にした人の集まり」という点になります。

ポイントは「順番」な気がしています。組織がすでにあってその中で主観の相互共有を求めるのではなく、何かしらの関心(=主観)があってそれを柱に人が集まっている、という状態です。そもそと関心を共有するもの同士で集まっているので、その心理的安全性は高いのでは、と思うのです。

こんな話を聞いたことがあります。同じ会社の中で動物好きの人が集まって、最初は互いに互いのペットの話をするだけで盛り上がるグループだった。けれども、時が経つにつれて動物の殺処分を社会的な課題として扱い、(元来その会社のサービスとはなんら関係のないものだったけれども)本気で社会課題に取り組む一つの組織になった、という話です。

実は、冒頭紹介した書籍においても、その終盤の章で、「ケアのコミュニティ」という形で、国家や会社、学校といった枠組みにとらわれない、自発的な人の集まりの存在についての記載があるのですが、通ずるところがあるかもしれません。自発的な思いを共有する人たちの間で、アイデアや安心感が交換・共有され、予期せぬところで大きな力や意味を持つことが起きうる、ということかなと思います。

最近、1on1という形で上司にコーチングの役割を期待するようになった会社さんは多いと思います。それ自体はとても素晴らしいことだと思います。ただ、どうしても、上司は上司、立場の違う人間としてどこか分かり合えない、というような難しさが残ってしまうことも少なくないと思います。そんな時に私が思うのは、こういったコミュニティの可能性です。例えすでにある一つの企業や学校という組織の中であっても、何かしらの思いを共通とする人との集まりがあれば、自分に素直になれ、「受け入れられた」と感じられる。そしてアイデアが交換され、キャリア開発や仕事に繋がる。結局、そういった居場所があるからその組織で頑張ろうと思える、そういった好循環を経験したことがあるという人も珍しくはないのではないでしょうか。

改めて、そういうことの大切さを認識し、意図的に組織の意思決定に反映していくことも必要なのではと思ったりします。

(それにしても、わたし、留学のプロセスについて書けていないですね・・・。)

最後まで読んで頂き、誠にありがとうございました。良い一日を。

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