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コンテンツ飽和時代、人生を着実に退屈にする「効率重視のパラドックス」を乗り越えるためのたったひとつの冴えたやりかた。

著者:海燕
 同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉管理人。ニコニコチャンネルにて有料会員数百人を集めるプロブロガーで、現在ははてなブログ〈Something Orange〉に注力中。アニメ、マンガ、小説、映画などサブカルチャーネタを中心に、さまざまな情報を発信。

 初めに、いまから200年ほど時をさかのぼって、その時代の天才詩人ゲーテの代表作『ファウスト』を見てみよう。
 この疾風怒濤の一大悲劇の主人公ファウスト博士は、万巻の書を読み尽くし、いくつもの学問を究め、その結果、「何もわからないことに気づいた」人物である。
 かれはその後、悪魔メフィストフェレスをともなって現実世界で快楽や権力を追求することになるのだが、それはともかく、今日の視点でこの『ファウスト』の冒頭を見ると、さすがに時代の違いを感じないこともない。
 ファウスト博士が何万冊の本を読み、どれほどの研鑽を積んだのかはわからないが、今日の世界にあふれる情報はそういった次元で「究める」ことができる分量ではないからだ。
 21世紀のいま、社会に満ちた情報は200年前の100倍では利かないだろう。
 もし、ファウストがいま生まれていたら、さまざまな学問に手を出してはその膨大な分量に喘ぎ、うんざりして「何もわからないということすらわからない」といい出したかもしれない。
 もちろん、情報量が増えているのは、ひとつ学問だけではない。いわゆる「エンターテインメント」、ポップカルチャーのボリュームもかつてないレベルに達している。
 映画も漫画も小説も演劇も、いままで想像すらできなかったほど膨大な作品が市場にあふれており、その圧力をまえに、わたしたちは受動的であらざるを得ない。
 たとえば、ひとたび音楽サブスクリプションに入会すれば、バッハから宇多田ヒカルまで、実験音楽からボーカロイドまで、いままで人類が生み出したありとあらゆる音楽を自室にいながらにして聴くことができる。ほとんどお金もかからない。
 レコードプレイヤーもウォークマンももはや遠い過去の思い出でしかない。いまとなっては、さまざまなジャンルの百万曲があたりまえのようにてのひらの上に載っている。まさに音楽マニアの天国というべきだろうか。
 それはまた、Amazon Prime VideoやNetflixのような映画サブスクリプションでも、Kindle StoreやBOOK WALKERのような電子書籍ストアでもあまり変わらない。
 わたしたちはそこに上流から下流まで、人類文化のあらゆる成果を見つけられることだろう。
 豊穣と飽和の時代。あたかもこの世のどんな果実も好きなだけ楽しめる楽園に到達してしまったようだ。
 しかし、この「豊かな」時代においてはこの時代なりの悩みが発生する。評論家の中島梓(作家の栗本薫)はエッセイ集『ガン病棟のピーターラビット』のなかで、そのことについて、旧日本軍のある部隊による演劇について綴った『南の島に雪が降る』を引いてこう書いている。
 少々長くなるが、引用しよう。

 『南の島に雪が降る』を読むと「娯楽」というものの「本当の意味」がよくわかります。いまの世の中はとにかくエンターテインメントが溢れかえっていて、そのなかで「選んでもらう」ためにどの作品もどのタレントもありったけの大声、金切り声をはりあげて「私を見て、私を選んで」と絶叫している、ような印象さえありますが、「一年に一回しかまわってこない旅芝居」が農民たちの最大の楽しみだった時代には、農夫は辛い草むしりをしながらいつしか覚えてしまった義太夫を口ずさみ、「あと何日で旅芝居が見られる」というのだけを生き甲斐にするようなころが本当にあったのです。テレビが朝から晩までなんでも垂れ流しているようになる以前には、ありあまってしまった夜の時間は、話しでもするか、本でも読むか、自分自身の趣味を求めるかしかなかった。そのころには、読んだ本が面白いかどうか、というのはとても重要なことだったような気がします。「娯楽」というのは、ただのありあまる、「自分を選んでくれ」と叫んでいる無数の選択肢からつまらなそうに一つ取り上げてはまた放り出して次を気まぐれにつつく、ことではなしに、「一年間その日のくるのを楽しみに待っている」ほど重要なものであったはずです。

 彼女のいうことはわかる。ここで書かれているものは「豊穣のパラドックス」とでもいうべき現象だ。
 つまり、市場が豊かな商品であふれればあふれるほど、わたしたち消費者にとってひとつの商品の価値は下落していくわけである。
 それはエンターテインメントでもそうで、わずかしか商品がない場合にくらべ、膨大な商品がある場合にはどうしてもひとつひとつの商品に価値を見出しづらくなる。
 結果、「無数の選択肢からつまらなそうに一つ取り上げてはまた放り出して次を気まぐれにつつく」ことになりがちなのはたしかにそうだろう。
 豊かな社会にひそむ本質的な貧しさ。嘆くべき惨憺たる社会の現状であるかもしれない。
 しかし、だからといって「昔は良かった。市場が貧しかったからからこそひとつの作品の価値が良くわかったのだ」といって済ませることはいかにも不毛である。
 それでは、社会も文化も貧しいほうが良いことになってしまう。
 たしかに、社会や文化が貧しければ商品、あるいは作品の価値はいっそう胸に沁みるかもしれない。
 だが、いまさら市場の商品を少なくできるはずはないし、仮に少なくなったとしたらそれはそれで不満が出てくるに決まっている。
 「市場が貧しいほうが商品の価値がよくわかる」というたぐいの意見はどこかで倒錯しているし、しょせんは「社会が悪い」と環境に文句をつけているに過ぎない。
 じっさいには多くの人が望んだ結果としていまの社会環境があるのだ。それよりもこの社会環境でどう幸せに生きるかを考えることのほうがポジティヴであると考えたい。
 とはいえ、選択肢があまりに膨大にありすぎると、そもそも選択することそのものが困難かつ億劫になることも事実ではある。
 いわゆる「選択のパラドックス」という現象はよく知られている。それはアメリカの心理学者バリー・シュワルツが発見した心理で、まさに選択肢が過剰になるとそのことによって幸福感が目減りすることを指す。
 わたしたちは選択肢があまりに多すぎると、どうにか選んだところでその選びだしたものに満足と確信を抱くことが困難になってしまうのだ。
 とはいえ、ある程度の経験があれば、どれほど膨大な選択肢があっても、「良い本」や「良い音楽」を「直感」で選び出せてしまう。
 これは人間がもつ不思議な能力のひとつで、選択に慣れてくると膨大な情報からひとつを経験則的にピックアップすることが可能となる。
 言い換えるなら「なんとなく選ぶことができて、しかも外さない」のだ。
 しかし、こういった特異な能力はあくまで巨大な記憶のデータベースが背景にあって成立するものである。わたしは書店に並ぶ百万冊のなかから自分にとって面白い本を選び出すことには自信があるが、同じように化粧品を選べなどといわれたら途方に暮れてしまうことだろう。
 選択はだれにとっても楽なことではない。そして、だからといってわたしたちの心理に合わせて選択肢が適度に減ってくれたりはしない。また、ほんとうに減ったら減ったらでそれも問題である。
 そうなら、どうすれば良いか?
 いろいろな答えが考えられるところだろうが、わたしの考え方はシンプルである。わたしは最適の選択を行うことそのものをあきらめてしまおうと提案したい。
 千もの万もの選択肢が存在すると、あたかもそのなかに「正解」があって、それを選び出せば完全に満足できるように思えてくる。
 しかし、それは幻想だ。たしかに「より満足のいく選択」はありえるだろう。だが、すべての選択肢を順番に試すわけにはいかないのだから、どれを選んだところで100%「これで良かった! 他の選択肢を選ぶべきではなかった!」と思い知ることはありえない。
 残されたいくつもの選択肢のなかに「もっと良い選択肢」があったかもしれないという可能性は常に残りつづける。それは選択の満足度を下げるに違いない。
 だから、「どんなに悩んでも常に最善の選択を行うことは不可能である。そもそも選択の結果が最善であったかどうかを検証しようがない」という事実を受け入れてしまうのだ。
 何なら、コインを投げて決めてしまってもいい。コンシェルジュ人工知能に決めさせても良いかもしれない。
 その結果としていつも満足のいく選択を行うことはできないかもしれないが、そのことは受け入れるしかない。いつも「正解」を選んでいたいという心理こそがわたしたちを不幸にするからだ。
 これもまたいかにもパラドキシカルな話だが、できるだけ損をしたくないと思い、リスクを避ければ避けるほど、無難でつまらない選択を行いがちになり、選択という行為そのものの喜びは減退していくことだろう。
 まさに選択は「ただのありあまる、「自分を選んでくれ」と叫んでいる無数の選択肢からつまらなそうに一つ取り上げてはまた放り出して次を気まぐれにつつく」行為と化す。
 つまり、わたしたちの人生そのものを豊かにするためには「選択の結果」を良いものにするのと同時に「選択する行為そのもの」をも楽しいことにしなければならないのに、「どうしても失敗したくない」とその行為をネガティヴに捉えることはその楽しさを殺してしまうのだ。
 選択は、いつだってどこかギャンブルめいている。うんざりするような失敗をしでかす可能性を受け入れたときだけ、選択は面白くなる。
 たとえば、まったく知らない街にやってきて、どこへ行ったら美味しいものが食べられるのかまるでわからないとしよう。
 そのようなとき、「なるべく確実に美味しいものを見つける」ための方法論は、すぐにスマホを開いてたとえば「食べログ」を見ることである。
 そして、そのなかでいちばん評価が高い店に入る。そうすれば、失敗する確率は大幅に減るに違いない。
 もちろん、100%満足できるということはありえないが、ほとんどの場合、とんでもなくダメな店を選んでしまうことは避けられる。
 ただ「選択の結果」を効率良くするという視点に立つなら、それはとても合理的なやりかただ。
 しかし、どうだろう。せっかくまったく知らないところへやってきたのに、そうやって臆病に失敗を恐れる生き方は退屈ではないだろうか。
 わたしはここで発想を転換することをお奨めする。失敗したところで何が悪い、と考えるのだ。
 冒険は失敗を犯すことがありえることがある場合にだけ成立する。だから、「選択の結果」を最良にしようとガチガチに固い選択肢を選ぶのではなく、「選択そのもの」を楽しいものにするためにあえて適当に店を選ぶ。
 その結果、必ずしも素晴らしく美味しい店にはたどり着かないかもしれない。おそらくそうなるだろう。だが、それはそれで受け入れてしまえば良いではないか。
 「確実で堅実な選択」という幻想を捨ててしまえば、その日のランチの満足度は減るかもしれないが、人生は冒険の連続と化し、ひとつひとつの「選択の結果」はあざやかな思い出となって記憶に残る。
 それはたとえばAmazonで見たい映画を選ぶ場合も同様だ。選択という行為を楽しむために、最善の選択を外したくないという思いを捨ててしまうべきなのだ。
 
 思い出してほしい。すべての学問を究め、あらゆる知識を手に入れたファウスト博士はその結果、「何もわからない」という境地に達してしまったのだった。
 どれほど知識や情報を仕入れても、確実に成功することなどできない。そもそも自分が最善の選択を行ったかどうなのか知ることすらできない。それが選択という行為の本質だ。
 どうせわからないのなら、わからないことそのものを楽しもう。「選択の結果」を最良のものにコントロールしたいという欲望を捨て去り、選択そのものを味わおう。
 社会が豊かになればなるほど実感が貧しくなっていく「豊穣のパラドックス」、あるいは選択肢が増えれば増えるほどひとつひとつの選択に満足しきれなくなる「選択のパラドックス」の背景にあるものは、確実に無難に効率的に良い人生を送ろうとすればするほど人生が退屈になる「効率重視のパラドックス」である。
 そのパラドックスは何が起こるかわからない人生をどうにかコントロールしたいという切ない思いから来ている。
 そして、そうやって堅実に操作しようとすればするほど、人生は退屈な予定調和の連続となる。それは本来、どこまでもワクワクする大冒険であるはずなのに。
 たしかに、まったく無知なまま無作為な選択を続けて生きていくことはできない。それが食べログか、Amazonレビューかはわからないが、何らかの道しるべが必要になることはたしかだろう。
 だから、大切なのは一切の道標をあてにしないことではなく、「そうやって情報を調べ尽くせば最善の選択が可能である」という考え方をやめてしまうことだ。
 めざすべきは常に「いま」のチョイスを楽しむことであって、ただただ安全に、大きな失敗を犯すことなく無難に生き抜くことではないのである。
 完全なる安全と無痛という幻想を放り投げ、失われた「生」を取り戻そう。そのとき、過剰なまでに膨大な作品がひそむ巨大な市場は、いわばひとつの「自然」として、うっそうたる謎に満ちた危険なコンテンツジャングルとして捉え直されることだろう。
 地図を捨てろとまではいわない。だが、それに頼り切ることをやめよう。鋭い野生のカンをもってその密林に乗り込むのだ。
 そこには笑ってしまうほどくだらない駄作もあれば、人類の至宝ともいうべき最上の芸術作品もひそんでいる。
 その冒険に際して、できれば「コスパ」や「タイパ」を確保したくなることは自然だが、そうやってたくさん情報を仕入れ、道に迷いたくないと思えば思うほど、未知の絶景と出会う感動は遠ざかっていく。
 冒険者よ、人生に正しい道などない。それは本物のスリルとサスペンスに満ちた危険な探検だからだ。その事実を受け入れよう。
 それが、それこそがたったひとつの冴えたやりかた。人生が本来もっている感動と歓喜を再生させるための、最も正当な方法論である。