見出し画像

自分の話をするのが苦手だという話

私は自分の話を人にすることがものすごく苦手である。
だから、とてもじゃないけどカウンセリングなど受けられない。
なぜ苦手なのか
「他人が私の話に興味などあるのか」と思うからだ。
それでもってとても恥ずかしい。

心療内科では自分の話を極力せず
でも自身の体調や気分の落ち込みなど
正確に端的に話すために台本を用意していく。
そう、私は不意の質問にとんでもなく弱い。

でもたまに緊張しないプラベートな場面などで
自分の話をたくさんしてしまうことがある。
そのとき思いがけず
「自分の話を聞いてもらいたい」
という気持ちが自分の中にあることに気付く。
そのとき
「自分の話を聴いてもらえることがこんなにも嬉しいことなのか」
と嬉々として居る自分に気付く。
そのとき一生懸命私の話を聴いてくださった方に
感謝の気持ちでいっぱいになる。

と、同時に帰り道からずーっと反芻の嵐だ。

反芻とは「なぜあのときあんなに話してしまったんだろう。」
と否定的にその時の自分の様子を振り返り
自分の言動・行動・選択を責め続けてしまうことだ。

あんなこと言わなきゃよかった
相手は私の話を聞いて困ってはいなかっただろうか
私の話ばっかり聞かされてつまらなかっただろうな
相手にももっとたくさん話してもらえばよかった
あああああああああ!!!!!
などと何度も何度も同じことを考え
頭を抱えるほど反芻し、後悔する。

そして猛烈に恥ずかしくなる。
穴があれば速攻入りたくなるほど
人目につかない場所に行ってしまいたくなる。

そうして短文の、いや時には長文で
相手に後ほどメールやLINEなどで
「自分の話をしすぎました。本当にすみませんでした。」
と送ってしまうのだ。

この現象に名前があるのなら教えてもらいたい。

私は幼い頃から「変人」と言われ続けてきた。
他人からしてみれば不思議な思考、
独特な考えを持っているのだろう。
その様子は自分ではどうしても客観視することが出来ない。

だから自分の話に「共感」してもらったことがなかった。
そのため当然「共感の概念」が自分に根付くこともなかった。
共感・協調が出来ないために
今こうして私は自分の話ができなくなっているのかもしれない。

ブログでは話せているじゃないか、と思った皆さま。
大正解。
ブログは「見たい人が見る」という
私に興味がある前提なので
安心して自分の話が出来るのだ。
だから反芻することもないし
恥ずかしい気持ちもない。
だがこれが、対人になると一変してしまう。

たまにすごくおしゃべりな人に出会うと感心してしまう。
つまらないとか
聞いてないよとか
そんな気持ちはなく
ただただ感心して関心を抱く。
すごく自己肯定感が高い人なんだな、と。

私は自己肯定感が極端に低い。
ありのままの自分を肯定するなんて到底できない。
だから自分のプライベートな話ができる相手はとても少ない。
1人いるか・・・いないかだ。

共感してもらえるだろうか。











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?