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【自分史】「宇宙」を目指して24年。

11月4日に24歳の誕生日を迎えました。noteではまだ自己紹介をしていなかったので、これを機に人生を振り返ってみようと思い、ざっくりとまとめてみました。

この記事の執筆のもとになったのは、就職活動中に提出が求められた課題である、人生で自分に大きな影響を与えた出来事を説明するライフチャートです。

ライフチャート_永利

そのとき作成したライフチャートをベースに大まかに人生を振り返ってみます(目次の番号とライフチャートの番号が対応しています)。


1.人生初の大きな環境の変化、価値観や振る舞いが大きく変化した期間【小学校時代】


小学4年に上がるタイミングで引っ越し、転校を経験しました。転校といっても都内での移動ではありましたが。

転入先の学校はそれまでの学校と比較して規模が小さく、すでに完成されたコミュニティでした。また、同級生とは異なる人数の少ない学区に属し、転校してすぐ進学塾に通い始めたこともあり、なかなか馴染むことができませんでした

加えて、自分はアトピー性皮膚炎という、体の免疫反応が肌に現れ、ぶつぶつができてしまう病気を持っていました。実際、「ぶつぶつ」などと呼ばれることもあり、嫌な思いをすることもありました。

完成されたコミュニティのなかで、見た目が人と違い、すぐ塾に行き始めた結果、周囲からは避けられ、なかなか友人も作ることができず苦労しました。

転校前の学校ではボケたりふざけるタイプだったのが、良い言い方をすればおとなしく、悪く言えば性格がねじ曲がった気がするのは、転校がきっかけでした。

実際、転校前の学校ではいい思い出ばかりなのに対して、転校後の学校生活には良くない思い出も多く残っています。

その中でも仲良くしてくれる人はいるもので、その人たちと出会うことができたこと、そして塾という別のコミュニティがある種の「逃げ場」のような役割を果たしてくれたことで、塞ぎ込みすぎずに生活できました。

この期間を経て、それまでは大勢の友達と明るく振る舞うことが多かったのに対し、信頼できる少数の友人を大事にする価値観が形成されたように思います。

2.宇宙好きの仲間との出会い、自分の好きを全開にできる人生初のコミュニティ、そして人生のターニングポイントとなった教え【中等教育学校時代】


小学校卒業後、都立小石川中等教育学校に入学しました。中等教育学校とは、一般的な中学校と高等学校に該当する6年間で一貫教育を行う学校区分であり、中高一貫校の一種です。ただ、他の中高一貫校とは異なり、中学高校のすみ分けはなく、前期課程と後期課程に分けられます。

文化祭の照明演出を担当する委員会に5年間所属し続け、文化祭実行委員(正確には芸能祭実行委員と言います)も務めたり、天文部からオーケストラ部に転部したり、いろんな分野に手を出した6年間でしたが、その中でも「宇宙」という言葉が1つの大きなテーマとしてありました。

中等4年(高校1年)の冬、その後の生き方に大きく影響する出来事がありました。今はもうありませんが、サイエンスキャンプという科学技術振興機構(JST)が主催するイベントに参加したのです。

当時、夏休みと冬休みにさまざまな施設で宿泊型の研修としてサイエンスキャンプが開催されており、その中にJAXA筑波宇宙センターでの研修がありました。

何をきっかけにサイエンスキャンプを知ったかよく覚えていないのですが、当時化学を教わっていた先生にいろいろ助けていただいた結果、20人程度の枠に入ることができました。

後から聞いた話では、他の施設に比べJAXAは圧倒的に人気があり、倍率もかなり高かったとのことでした。実際、東京から参加したのは自分だけで、全国各地から参加者が集まっていました。

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2012ウィンターサイエンスキャンプの参加者(奥左から4番目が自分)

このイベントでメンバーから教えてもらうまで、宇宙兄弟という漫画を知らなかったのですが、まさにムッタと同じような感覚だったと思っています。

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モデルロケット打上げの様子@筑波宇宙センター

それまで、宇宙に関して共通の話題を持てる人が周囲にはいませんでした。そのため、自分と同じように宇宙が好きで、真剣に話ができる人たちとの関わりを通して、宇宙分野への意志を再確認する機会となりました。

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最終日、宇宙への想いを語るプレゼン(どこ見て喋ってるんでしょうか)

そして、JAXAの職員の方(GCOM-W「しずく」を担当されている方でした)から、自分が関心を持つ宇宙探査に関わるためのアプローチとして、航空宇宙工学ではなく惑星物理学の道を勧められました。

宇宙探査機というのは、航空宇宙の技術者が作るというより、惑星物理の研究者が必要に駆られて作るものだ、と。当時は理解できていなかったのですが、確かに宇宙探査の要求定義やプランを検討する上で、何を探査するべきか、何を探査したいかというのは研究者が考えることです。

それがあった上でどういう探査機が必要なのか、具体的な設計に入っていくのですが、自分はどういう探査がしたいかを考える方がやりたいと思い、惑星物理学者の役割の方に惹かれるようになりました。

結局このイベントが決め手となり、大学では宇宙物理学を学ぶことを決め、諸々あった結果首都大学東京(現:東京都立大学)に進学しました。

3.アメリカへの留学と出会い、そして自分の人生における最大のビッグイベント【大学時代①】


大学に進学してから絶対にやりたいと考えていたことの1つが「海外留学」でした。宇宙開発に関心を持っていれば、やはり海外というのはキーワードとしてあがってきます。NASAやESAはもちろん、宇宙ビジネス(当時はそこまで多くありませんでしたが)についても海外の方が先を行っています。

入学当初は半年もしくは1年、それこそ可能なら海外の大学に進学するといったことまで考えていました。しかし、入学と同時に教職課程を取り始めたことが影響し、長期留学が厳しくなってしまいました。大学の留学センターに相談したところ、「教職を取りながら長期留学する人はいない、卒業時期を遅らせるならできるかも」と言われたのです。

早く宇宙分野に関わりたいという思いがあったこともあり、留年は考えていなかったので長期留学は諦めることになりました。そこで考え始めたのが、夏期休業期間中の短期留学でした。今となっては違う進路を辿っていますが、当時は学部の間に短期留学をし、大学院で海外に出るのがいいかもしれないと思うようになっていました。

まずは学内の提携校から探しましたが、自分にとってめぼしい候補は見つかりませんでした。せっかくなら宇宙開発の最先端をいくアメリカに行きたいと思っていたのですが、首都大はどちらかというとヨーロッパに提携校が多く、特に夏にアメリカの大学に行くのは難しい状況でした。

そこで、旅行代理店のプログラムなど学外で候補を探すようになりました。このとき条件としてあったのは、「単なる語学留学にはしたくない、大学の理系英語に触れたい」ということでした。語学学校のプログラムでは日本と変わらず意味がないと考えていました。

最終的に見つけたのがUC Davis(カリフォルニア大学デービス校)のEnglish for Science and Technology(EST)というプログラムでした。大学内の施設を借りて英語の授業を受けることができ、しかも短期留学の中で理工系と冠されているのはこのプログラムだけでした。

実際に参加した中で、1番のビッグイベントがProfessor Chris McKayとの出会いでした。2016年8月31日、この日は自分の人生でも一番強く思い出に残っている日です。

Chris McKayに会うまでのプロセスは自分に起きたことだとは信じがたいことばかりでした。以下はFacebookに投稿した内容の再編版です。

①ESTプログラムの中でSilicon ValleyへのSite Visitが予定されており、アメリカに行くならNASAに行きたいと思っていた自分は、Silicon ValleyにNASAの施設であるAmes Research Centerがあったことを思い出す。

②Site VisitはESTのクラスごとに行くツアーであり、行程の中にAmes は含まれておらず、自由行動の時間もなかったため、行くチャンスはないと諦めていた

③現地で、別の大学から来た留学生の1人とたまたま仲良くなり、いろいろ話しているうちに「Ames行こうよ!」ということになり、ダメ元で留学プログラムの責任者の方に2人で直談判を決行。

④直談判の結果、ツアーとしてプランが決まっているため自由行動はないが、自分たちで帰って来られるなら皆には内緒で行ってきても良いよと快くOKをもらう。

⑤その頃自分が調べていたテラフォーミングの専門家であり、テレビでも見たことのあったChris McKayがAmes所属であることが分かり、これは会いたい!となりメールでアポイント。

⑥アポイントメールは1週間後の水曜日昼頃にAmesに行くが会えないか、という無茶苦茶な内容だったが、なんとOK。しかも夜に返信があったのでホームステイ先で声にならない絶叫をかます。

⑦調整の結果、ツアーで訪れるComputer History Museumで2人だけ降ろしてもらい、Chris McKayと合流することが決定。タクシーなど自分たちだけでは入構が面倒だろうということで、Chris McKay自ら車で迎えに来てくれることに!

⑧車でAmesまで連れていってもらい、そのまま施設内をドライブしながら案内してもらうという贅沢なツアーをしてくれる。

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Amesの構内をドライブ&ツアー(写真撮ってくれていたのありがたい)

⑨忙しい中1時間弱もらってインタビューを実施。写真撮影にも快く応じてもらえた。

このとき、撮っていただいたのが下の写真です。

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Professor Chris McKay @ NASA Ames Research Center

留学を決めたときは、まさかこんなことになるとは全く予想できていませんでした。自分がやりたいと思うことを実現するために能動的に動くと本当にできるんだなあと感じた出来事でした。

4年以上経った今でもその時の興奮は覚えてますし、もっと頑張ってChris McKayのような人たちと対等に渡り合えるようになりたいなと思うようになりました。

4.人生で初めてトップとして組織を率い、さまざまな苦労とともにイベント主催などの活動に取り組んだ1年間【大学時代②】


Chris McKayにお会いするきっかけとなり、現在の自分の進路を選ぶ理由となったのが宇宙開発フォーラム実行委員会(SDF)での活動です。

SDFは「学生が考えるこれからの宇宙開発」をコンセプトに2002年に設立された学生団体で、宇宙開発を多面的に考察し、参加者の方に学際的な視点を提供するイベントである「宇宙開発フォーラム」を主催しています。

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宇宙基本法や宇宙基本計画などが策定されるより前、JAXAがまだ前身の3組織だった頃に設立され、2020年現在も活動を続けているという、学生団体としてはかなり長寿の組織です。

自分がこの団体を知ったのは、インターネットでたまたま見つけたことがきっかけでした。当時大学1年生だった自分は、大学生活に慣れてきて何か刺激が欲しいと思うと同時に、宇宙に関することにもっと触れたいと思っていました。

そんなとき、たまたまネットで「宇宙 学生」などと検索したら出てきたのがSDFでした。HPを見ると自分と同じ首都大の先輩が代表をやっているということが分かり俄然興味が湧いたのを覚えています。

諸々あってSDFに入ったのは、もはや新歓の時期などはるか昔、それどころか次の新歓に向けて準備を進めている時期でした。そのため、団体に慣れる暇もなく、「後輩」を迎え入れる作業に組み込まれました。

しかし、すでにその年の方向性や組織体制は決まっており、途中から参加した自分に入り込む余地はなく、とりあえず見学しているような感覚が強い状況でした。

そのとき、1つ上の先輩に声をかけてもらい、SDFが学生団体として初めて出展することになった2016年の国際航空宇宙展(JA2016)の運営に参加させてもらうことになりました。

このとき、コンテンツのテーマとして取り上げたのが「テラフォーミング」でした。Chris McKayに会うエピソードはここがスタートになっています。

ともかく、JA2016での経験が非常に大きかったなと思っています。右も左も分からない状況で後輩を率いてコンテンツを作り上げるというのは簡単なことではありませんでしたが、多くのことを学ぶことができたイベントでした。

それが終わったのち、次年度の代表はどうするのか、という話が持ち上がりました。はじめは、途中加入で組織運営も特にやっていない自分には関係のないことだと思っていました。

しかし、様々な状況が重なった結果、自分しか代表をやれる人がいないという事態になってしまったのです。この時の話はもはや酒のネタになっていますが、当時は気が気ではありませんでした。

組織運営やイベント運営は確かにやったことはありますが、文字通りトップに立ったことはそれまで一度もなかったからです。15年も続いてきた団体の一番先頭に立ってメンバーを引っ張ることなど自分にできるとは正直思っていませんでした。

それでも、他に誰もいないので覚悟を決めるしかありませんでした。今振り返ってみると、そういう状況だったからこそ代表をやる決意ができたのだと思います。

自分は明確な「負けず嫌い」という性格ではありませんが、誰かと比較されて劣っていると評価されるのが嫌だったため、代表をやるなら歴代の先輩たちには負けたくないと思っていました。

特に、1つ上の代はOBや企業の方から高く評価されており、自分の経験上、良い評価を受ける代の次はあまり良くないことが多いと思っていたので、余計に1つ上の代には負けたくない気持ちが強くありました。

むしろ、後々になって「あいつが代表の代はすごかった」とちょっとでも言わしめてやるぞと思っていたりもしました。

しかし、いざ代表になってみると何から手をつけていいか分からず、毎週のミーティングではいつも先輩方から指導されていました。何回か立って慣れてきたと思ったミーティングでも、終わった後に先輩から「ミーティング、準備してる?」と言われる始末でした。

何がいけなかったか、一番の原因は何をすればいいか分からず前年度までの真似をしていたことでした。目的があって、いろいろな議論があった結果取り組まれてきたことを表面的に再現しても何の意味もありません

自分は何がしたいのか、団体として何がしたいのか、何を実現したいのか、正直見えていなかったんだと思います。もちろんいろいろ口には出していましたが、本質的な議論はできていませんでした。

代表になって2か月ぐらい経ってやっといろいろ見えてきて、自分でも徹底的に考えるようになって、少しずつ前に進めるようになっていった気がします。

そこから先も苦労の連続でしたが、語るには長すぎるのと記憶が曖昧なのとで、また別記事にしようと思います。

結果的には、宇宙開発フォーラムの開催場所を10年ぶりに変更できたり(ほとんど自分のわがままです)、各コンテンツの導入という役割で基調講演を復活させ、思い描いていたようなコンテンツにできたりと、いろいろ実現できた一年でした。

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宇宙開発フォーラム2017の会場となった日本科学未来館

もちろん、全部が全部やりたかったことを達成できたわけではありませんが、これだけは譲れないと思っていたことをなんとかやり遂げることができたのではないかと思っています。

ちなみにフォーラムが終わったくらいに受けたインタビューが、以前公開した下の記事です(今見ると恥ずかしいですね)。

そして、2017年の成果をまとめたのが下のリンクにある報告書です。「『自分』を変える、『宇宙開発』が変わる」と書いてあるやつです。これは宇宙開発フォーラム2017のキャッチフレーズですが、そのまま自分のキャッチフレーズでもありました。SDFでの活動で自分を変え、宇宙開発を変革する人材になる、そんな思いがありました。


歴代の代表を務められた先輩方が言っていたことで共感することの1つに、「代表をやった年がSDFで一番楽しかったわけではないけど、間違いなく一番充実していた」ということがあります。自分は中途半端な完璧主義者なので、こだわり始めたら止まらないということが多く、その結果いらない苦労をすることも多くありました。それでも、間違いなく充実していた1年間だったと思います。

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代表挨拶(練習したのに喋っている途中に内容が飛びました)

いろいろ嬉しいこともありましたが、特に嬉しかったのは、フォーラムの打ち上げの場で言われた「尊敬してます」という後輩の言葉でした。決して自分からそういう言葉を言われたい性格とかではありませんが、いろいろと考え方の違いで衝突することも多かった後輩からそんなことを言われたので、驚いたのと同時に頑張ってよかったんだと思えた瞬間だった気がします。

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宇宙開発フォーラム実行委員会のメンバー(白くま今も使ってます)

そして、このSDFでの経験、特に代表を務めた1年間の経験がSDMに進学することに繋がっています。正確には繋げました。代表になってしばらくして、先輩のツテでSDMのワークショップに参加する機会をいただきました。

そのときの衝撃たるや、今でも忘れません。ちょうど自分が代表として団体運営やコンテンツづくりに悩んでいたときであり、そのワークショップで聞いたことは「まさしくこれがやりたかったんだ」と感じたのです。

イノベーションとは何か何が必要なのか何をするべきか、そのとき聞いた方法論や思考法はどれもワクワクするものばかりでした(今の自分からすれば全然理解できていなかったなと思うことばかりですが)。

こんなことを学べる場所があるのか、大学院でこんなところがあるのか、とても興味が湧きました。

そのときは、まずはSDFの活動にどう還元するかということを考えていました。ミーティングなどで取り入れられることはすぐに取り入れてみたり、ワークショップの方法論を実際に自分で実践してみたり、いろいろやった記憶があります。

基調講演で白坂先生をお呼びしたのも、SDMのワークショップがきっかけです。システムズエンジニアリングシステム×デザイン思考の話は須くどのコンテンツでも土台になると感じたことと、宇宙開発を取り巻く環境の変化にどう対応するかというテーマにぴったりだと感じたので無理を言ってお願いしました。

そういったことが積み重なって、フォーラムが終わり自分の進路を具体的に考えるようになってから、SDMのことは常に頭にありました。

当時、4年間物理を勉強してきたけど、これ以上頑張っても物理の道を究めるのは難しい、自分には向いていないと感じていました。でも、全く違う業界に就職するのも違う、やっぱり宇宙開発には携わりたいという思いが根底にありました。

ならどうするか。自分がSDFやそれ以外の個人の活動を通して感じていたことは、
・大学を出てそのまま宇宙業界に入るなら、やっぱりエンジニアリングのバックグラウンドは必要である
・日本には専門性を極めるスペシャリストは多くいるが、専門性を束ねるプロデューサーが不足している
・宇宙業界に限らず学際的な視点は重要であり、俯瞰的にものごとを捉えられる人材が求められている
ということでした。

そして、SDMならこれらのことが満足できると考えました。自分の経験はここで学ぶことに繋がっている、そう思うようになっていきました。

航空宇宙工学が王道である宇宙業界において、異端な人材になろう、他の人がやっていないことをやろうと思い、最終的にSDMへの進学を決意するに至りました。

大学に入学したときは、まさか自分がこんな進路を選ぶなんて想像すらしていませんでした。でも、就活に関する記事でも書きましたが、それが自分らしさだと思っています。想像できる道を進むより、だれも知らない道を進む方が楽しいので。​

ともかく、ありがたいことに合格をいただき今に至るわけですが、SDMでの学びはあらゆる意味で想定外です。ゼロからのスタートだということに覚悟があったとはいえ、その覚悟が折れそうになるようなハードさがあります。

SDMでの学びや経験は、修了することができたらまた書こうと思います。修士論文提出までちょうど80日となり、いよいよ厳しい追い込みに入っていきます。なんとか修了できるようもがいていきたいと思っています。

本当はもっと書きたいことがあったのですが、これ以上は修論や他に取り組んでいることに支障をきたしかねないので、ここでタイピングする手を一旦止めることにします。

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