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夏の日の「平和集会」という学校行事から学んだこと

わたしは、九州の出身です。
わたしが通っていた地域の小学校では、毎年夏休みのまっただなかに「平和集会」という集会が開かれる特別な登校日があり、いつもこんがりと日焼けした顔で通っていました。

その日は、ひさしぶりにクラスメイトたちに会えるわくわくした気持ちと、もうひとつ、ちょっと憂うつな気持ちもありました。
平和集会の日は、毎年、児童玄関のホールの壁に、写真パネルが掲示されていました。
心への配慮の進んだいまでは、考えられないことかもしれませんが、二十年前の当時は、空襲の炎で性別もわからないほどに炭化したご遺体の写真や、原子爆弾の熱によって被爆した人の影が焼きついた石段の写真などが、いくつも掲示されていました。
下駄箱で靴を脱ぎ、上履きに履き替えてから教室へ向かうとき、その写真の前を通らねばならないことは、子どものわたしにとって、とてもこわさを感じることでした。
ぎゅっと目を閉じて、写真の前を走り抜けて通っていた子もいました。

教室では、街に原爆が投下された時刻に黙祷をささげました。それから体育館に集まり、戦争をテーマにした映画を観ました。
壇上の大きなスクリーン。外からの光を遮る黒いカーテン。むわりとした暑さ。遠くから聴こえてくるミンミンゼミの声。 
アニメ映画ではあったけれど、普段見ているドラえもんや、クレヨンしんちゃんの映画のように、楽しいものではありません。
いつかの夏に観た「対馬丸 さよなら沖縄」は、大人になったいまでもひとつのシーンが目の裏に焼き付いていて、ふいに思い出しては、胸が苦しくなることがあります。
沈んでいく船の中で、男の子が絶命し、目を開けたまま海へ流されていくシーンです。
子どものころ、おなじ年頃の子どもたちが、戦争というものによって殺されていくシーンを見ることは、とてもつらいものでした。
こんなに、つらくて、悲しいのに。
誰もが、苦しんで、泣いているのに。
どうして戦争なんかするんだろう。
あのときの幼い疑問は、いまでもわたしの心の中に、そのままの形で残っています。

映画を観たあとは、校長先生の話を聞いて、全校生徒で平和を願う歌を歌います。
「折り鶴」や「夾竹桃のうた」は、いまでもその歌詞やメロディをおぼえています。
教室に戻ると、先生がひとりにつき一枚ずつ折り紙を配り、みんなで鶴を折ります。
(このとき、ランダムに混じっている金や銀のキラキラな折り紙に当たると嬉しかった)
そうして折った鶴は、六年生が糸でつないで千羽鶴にして、長崎への修学旅行のときに、平和公園へ捧げることになっていました。

大人になってからのある日、夫婦で折り紙の話をしたとき、同い年の夫が、鶴の折り方を知らない、と話していて驚きました。
「小学生のときに平和集会で折り方を習ったでしょ」と言ったら「そもそも平和集会って何?」と返され、さらにびっくり。
夫の通っていた首都圏の地域の小学校では、平和集会という行事はなかったようです。
平和集会は、遠足や運動会とおなじように、どこの学校でも当たり前に行われている行事だと思っていたので、とても意外でした。

わたしにとって、小学生のときの平和集会の記憶は、ほかの学校行事の思い出のように、楽しかったり、朗らかだったりするものではありませんが、あの夏の日に学んだことや、感じたことは、いまでも世界を見つめるときの大切な視点のひとつになっています。

どんな理由や背景があったとしても。
わたしたち、ひとりひとりが持つ命よりも、尊重されなければならないものなんてない。
わたしは、そんなふうに思います。
国と国との大きな争いを前にして、わたしに出来ることはほとんどないに等しいかもしれないけれど、それでも、たとえ小さくても、声を上げることに意味があるのではないかという思いで、この文章を書きました。

非力な紙の鶴のような思いが、ひとつ、またひとつと集まることで、それが大きな平和への祈りとなり、うねりとなり、この目の前の世界を変えることができますように。

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