見出し画像

わたしは勝手に救われている

集合住宅の共用スペースを掃く。
うちの前の廊下から、階段、エントランス。
埃、誰かの髪の毛、ちいさな虫の死骸。

掃除はいいよなあ、と思う。
(志村けんさんのいいよなおじさんの口調で)
手を動かせば動かしただけ、世界が変わる。足元がワントーン明るい。自己有用感。

最近は、ままならないことばかり。
泣きっ面にハチからさらに、9、10、11。
そのたびに、大丈夫、大丈夫って、なんとかバランスを保ってはいるけれど、そのうち、ころりと落っこちてしまいそうで。
落っこちたら落っこちたで、また、よっこらせっせと、よじのぼってくるしかないのだけれど。それもまた人生なのかもしれない。

外廊下の窓から、団地の群れが見える。
あの建物のなかに、いくつのドアがあるんだろう。百、二百、もしかしたら三百。
そのひとつひとつのドアの向こうに、誰かの人生があって、悩みとか、苦しみとか、なにげない安らぎとか、そういうものがあるんだと思うと、ほっとした気持ちになる。
誰かの暮らしの風景が、しずかに、わたしの心に寄り添ってくれるような気がする。

晴れ間をみて、外に出る。
公園のベンチで缶コーヒーを飲んでいると、オーバーオールを着た幼児が、のしのし歩きながら、コニチワー、と挨拶をしてくれた。そのあとを追いかけながら、苦笑いの表情で会釈をするおかあさん。
ふたりに手を振る。コニチワー。
今日は、とてもいい日なのかもしれない。

ひさしぶりに、100sの「ももとせ」のミュージックビデオを見る。都会のどこかのビルの屋上で、心のままに歌い奏でる風景。
だんだんと夜が明けて、最後に朝日がみえるところで、ちょっと泣いてしまう。

勝手に救われているなあ、と思う。
みんなそれぞれの日々を生きて、表現して、すれ違っているだけなのに、そういったもののすべてに、わたしは勝手に救われている。誰だって、誰かを救っているのだ。
わたしだって、あなただって。
その循環が世界だったらいいなって、今日のわたしは、そんなふうに思っている。


読んで下さってうれしいです。 スキ、サポート、シェアなどのリアクションをいただけると満面の笑顔になります。