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世の中なんてどうせ虚妄だ ~Dくんの冒険~

世の中なんてどうせ虚妄だ。
という虚妄を言い放つのは、他でもない僕自身だった。

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周知の通り、この国では義務教育なるものが行われている。そして終了後、教育を受けた子ども達は就職活動という選択を半ば強引に行わせられる。

このような選択を選べると言うこと自体は見方を変えると幸福なことだと思うが、誰かに決められたレールの上ではみ出さず、且つ従うことで最低限の生活が担保されるという魅惑的な義務に守られた子ども達にとっては
まるで大きな壁にぶち当たった際、足の踏み出し方が分から無くて急に足が震え出すように、この就職活動という将来を大きく左右する、選択の重さに不安を感じとることだろう。

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この大きな壁に対して、人はあらゆる攻略法を行ってきた。

あるものは、壁に正面から向き合い素手で一生懸命に上り
あるものは、壁の情報を探しだし、簡単に乗り越えられる道を行く
あるものは、驚異的な能力で、壁をゆうに飛び越えていく
あるものは、この壁とは何なのだ?と疑い、壁を小さくし、越える

今回の僕のnoteのキーワードはこの文章の最初に記載した

世の中なんてどうせ虚妄だ。
という虚妄を言い放つのは他でもない僕自身だった。    ~文頭~

この言葉の持ち主について少し語ることだ。

先ほど壁を攻略した四人を上からA~Dさんとすると文頭の言葉を言ったのはおそらくDさんだろう。この攻略法はAさんが情熱的に、Bさんが論理的に、Cさんが天才的にというならば、Dさんは哲学的と言っていい。Dさんはこの壁を哲学的に向き合った。

ここで哲学について少し触れようと思う。こんな話がある。


ある人が”哲学とは何か”と聞かれた際に、
「物事の本質をとらえることだ。」といった。

”本質とは何か”と聞かれると、
「物事の概念を支えているものを机の上に並べて、
 君が最も輝いてると思うものだ。」といった。

”分からないのですが”そう言われると、続けて

「須らく心を凝らして其物を目撃すべし、 
      便ち心を以て之を撃ち、深く其境を穿れ」 
とだけ残して人は去った。

...この話はここで終わりだ。


また、言葉を手綱にすると、
哲学はギリシャ語で【philosophia】”phili”:~を愛する。”sophia”:知
故に、”知を愛する”という意味だ。philosophiaが日本に持ち込まれた際に
当時、西洋の文献の翻訳を行っていた日本の哲学者・翻訳者として有名な
西周は、   

“希哲学”

とこのように訳した。

希とは

字源:目を細かく織った布を意味。隙間がほとんどないこと、即ち、「まれ」であることを意味。「のぞむ」は、めったにないことをこいねがうことから。

哲とは

1 道理に明るく、知恵がある。「哲人・哲婦・哲理/英哲・明哲」
2 徳や知恵のある人。才能・識見のすぐれた人。哲人。  
    

.......希(こいねがう)哲の学.......

(言葉にしてみると、どこか力強く、身の引き締まる感じがする。)

哲への学の道に対してキラリと輝く何かを欲した、もしくは素敵だなこうなりたいと願った人が、この険しく道へ進むのだと思う。


Dさんは立ちはだかる就職活動という大きな壁を前にした際に、こう思ったに違いない。果たしてこの道で正しいのだろうか。僕はこの道はなぜこんなにも高くそびえ立っているのだろうか。と。そのように芽生えた問いはDさんを思索の道へ誘い、やがてあの言葉の1行目を発せさせたのだ。


Dさんにとって就職という選択は不可思議で恐ろしいものの一つであった。今後の人生の大半を決定づけるもしくは、大きく関わる選択であるはずなのに、あるものは親から言われた通りに進路を決め、あるものは、給料が高いから、休みが多いからという、自分で考えたかも分からないような安易な理由で選択を終えた。そんな人々の背中を見ながら、このような方法ではだめだ。そう思うが、自分は何をしたいか分からないし、何を大切にしたいかも分からない。ましてや、ただ確かなのは、こんな選択から早く開放されたいと願う、弱々しい自分の姿だけ。

こんな事で良いのだろうか。そう思うDさんは真摯に就職活動のことを考えた。「就職活動は自分のやりたいことと企業のマッチングだよ!」そんな言葉を並べられても、やりたいことが分からないDさんにとっては、自分がなにもない空っぽな人間に感じるだけだ。まるで、君は人生を悔いなく生きる立派な人間に必要なものを何ひとつ持っていない、と暗示をかけられるみたいに。

ならば考えよう。Dさんは前を向いた。やりたいことって何だろう。自分の心がワクワクするようなことって何だろう。

ゲーム?いや、こんなんじゃないな。                 人から”ありがとう”と言われるようなことをすること?     

なんかそれっぽいな。さて、果たしてそれは正しいか?子供のころに自分が作った肩たたき券お母さんに挙げたとき。「Dは優しいね。ありがとう」と言われると、確かに嬉しかった。その時、僕は幸福だった。しかし、あるものは人を傷つけたり、人の物を盗んだりするときにワクワクするかもしれない。しかし、それは人からありがとうとは言われないだろう。それとき盗人は幸福か?幸福でなければこんなことしないだろう。少なくともその行為によって幸福を得ている。

 

ん?幸福ってなんだ...


Dさんにとってこの問いは、自分の思考回路の道で、必ず出会う行先の書いていない無機質な標識だった。そして、それは常にあるものだった。

その先で出会った。果たしてこの道で正しいのだろうか?
別の考え方はないか?という考え...
本当に希む、大切にしたい輝き。ただそれを観たい。

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そして長い長い月日がたった。
Dさんがこの道へ迷い込んで2年がたっていた。

私は頭の中で縦横無尽に幸福とか正義とか就職活動とかをこねくり回すだけで、現実何をしてるんだ。何を世に還元できているのだろうか?
まるで、コンパスで描いた円のようにやがてスタート地点に戻っている。

いや、でもこの世界は虚妄なんだ。
スタートもゴールもないんだ......


Dさんにとってはそれは、確かなことだった。初めて自由に、自ら疑問を持ち、自ら答えを探し探し出した正誤は分からないがもんもん一つの回答は、主客を抜きし、己が感じた、青年にとってあまりの鮮烈な事実として浮かび上がった言葉。そう感じ取ると、Dさんはなにもかもどうでも良く思った。だけれども、別の在り方もあるはずだと、幽かな温かい光を見つめるDさんは歩き続けた。この歩く円を、螺旋階段のように進んでいくために。
前に進み続けるために。

そしてDさんは次の回答を探しにいく。


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Dさんはその次の言葉にその言葉は虚妄だと言った。そこには、虚妄の中に輝く一つの真実を見つめた、1人の大人(たいじん)の気配をもつ青年が感じられる。


人生は長く、そして光のようにふと消え去ってしまうものかも知れない。その人生を自らの赴くまま、一つの真実性を探しに旅をすることは
誰かに決められたレールの上ではみ出さず、且つ従うことで最低限の生活が担保されるという魅惑的な義務に甘やかされた若者にとっては良薬になるかも知れない。そして、壁を乗り越えた先で、その先に待っている現実的な課題に辛苦を感じつつ、みんなで手を取り合い、立ち向かっていく。それが一つ思索の果てにDくんの選びうる、一つの道だろう。

物語はいや、道は、つづく。


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今回は義務教育からの就職活動から、ある哲学的思考を元に立ち向かったDさんに関して少し書いてみた。人の心は深淵にあり、他人が本当は何を感じ思うかは分からない。ましてや、自分の心は。その前提から、Dさんの心の動きを語ることは不可能に近いことは異論ない。しかしながら、一つの推測から観られるその心の動きは哲学的な思考を行う人達を理解できない人々の理解を少しでも助けるものではないだろうか。こんなことをまだまだ未熟な私が言うのも恥ずかしいことだが、だからといって言わないことはやめたのでここに記す。

最後まで読んでくださりありがとうございます。


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