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教室のアリ 第28話 「5月10日」②    〈涙の素振り、雨の熊本〉

オレはアリだ。長年、教室の隅にいる。クラスは5年2組で名前はコタロー。仲間は頭のいいポンタと食いしん坊のまるお

 ランドセルから顔を出していたら雨が降ってきた。パラパラからシトシトに変わり、ダイキくんの家に着く頃にはザーになった。
「ただいま」小声で言うとランドセルを背負ったまま自分の部屋に行き、静かに置いて教科書やノートを机に出した。オレたちは身構えていたけど、拍子抜けだった。
「雨が降ってきたから練習は無しだよー!家で素振りをするようにだって!」ママが大声で言った。それを聞いたまるおは言った。
「『素振り』ってなんだろ?『素揚げ』なら聞いたことがある」本当に食べることしか頭にないのだろうか…聞いたポンタは笑っていた。

〈雨か涙か、宮崎か熊本か大分か…〉
 オレたちはランドセルを安全に抜け出すと部屋の隅、タンスの影に隠れた(隅が好きなわけではない)。ダイキくんは机に置いてあるファイルから紙を一枚取り出してじっと見ている。紙には複雑ないろんな方向に曲がった「線」、「図」と漢字が書いてあったけど、オレたちの所からは見えなかった。ダイキくんは、紙を見つめて、天井を見て、別の紙に書く…それを何回も繰り返した。ぶつぶつと呟いていたが聞き取ることは出来なかった。
「勉強だね」ポンタは言った。
「だから、しなくていいんだよ。野球がうまくて足が速い、それでいいんだ。ボクはエサ集めが上手くてたくさん食べる。それでいいんでしょ?」まるおの意見は本当にブレない。オレはこの後、このやりとりを何万回も聞かされるのだろう、そう思った。すると、ポンタが言った。
「そう言えば、コタとまるおが算数の授業が終わった後、ハイチュウのことでケンカしているときに、ダイキくんはヒラヤマ先生に呼び出されて何か言われていたなぁ…○○は覚えないとダメとか、なんとか…」そうか、今は何かを覚えているのか。でも、一体何を覚えているのだろう?その後も15分くらい、紙を見て、天井を見て、別の紙に書く…それを繰り返していた。しばらく沈黙が続いた後…。
「あー、こんなん無理だ!」ダイキくんは突然大声でそう言うと、立ち上がりオレたちの方にやってきた。ややや、見つかる!ヤバイ!と思った次の瞬間、タンスに立てかけてあったバットを持ってどこかに行ってしまった。すぐにオレたちは追いかけた。何か嫌な予感がしたからだ。もちろん、オレたちの方が遅い。家の中をぐるぐる探した(ダイキくんの家はアリにとってはとても広い)。ダイキくんは雨がザーザー降っている庭にいた。公園と同じ芝生が生えていた。その上に靴を履かないで立って、バットを振っていた。胸に大きく赤で「C」、背中には「SUZUKI」と書いてあるシャツはビショビショになっていた。
「ブン、ブン」一回バットを振るごとに音がした。「ザー」と「ブン」…そしてよく聞くと「あお…」「いわ…」「…ぎ」「ふく…」ダイキくんがブツブツ言っているのも聞こえてくる。雨はどんどん強くなる。髪も顔もビチャビチャだ。オレは思い出した。ポンタの話と合わせると、ダイキくんは多分、多分だけど(自信はない)本当なら4年生で覚えなきゃいけない日本の…何だっけ…『ケン』みたいなのを頭に入れようとしているんだ!オレはもっと耳を澄ました。
「オオサカ」「ヒョウゴ」「ナラ」…間違いない。日本、そう!オレたちが住んでいる島をいくつかに分けているのが『ケン』だ。『ケン』の他にもあったはずだけど、忘れた。雨はどんどん強くなった。ダイキくんの顔も濡れている。バットを振ると水が周りに飛び散った。
「ミヤザキ!」「オオイタ!」「クマ、クマ、なんだっけ?クマ…あー、わからない、クマ、クマ、クマ、クマヤマ…違うか…」ダイキくんは、ポケットから紙を出した。
「クマモトか…クマモト!」と、言いながらバットを振った。クマモトと5回言って、バットも5回振った。顔はグチャグチャだ。オレには泣いているように見えた。涙かもしれない、雨かもしれない…オレたちにはわからない。キッチンの窓からママが見ていた。ママの目にも雨が入っていた。晩ごはん、ダイキくんのコロッケは大きい2個だった、パパは1個だったのに。
「きょうは素振りを94回振る予定だったんだ!でもいろいろあって100回振っちゃった」ダイキくんの言葉を聞いたけど、パパとママは何で増えたのかは質問しなかった。あ、コロッケの周りの茶色を食べるのを忘れていた。
「ね〜、僕たちのご飯は?」まるおが言った。窓の外は黒で、あしたは土曜日だ。

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