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「命の大切さと人の心の清らかさ」 元看護学生 中里美世さん 石巻で傷病兵を手当

 戦時中、石巻市で看護学生として傷病兵の手当てに明け暮れた中里美世さん(94)=東京都杉並区=に、当時の体験をつづった手記を寄せてもらった。うら若き女性が直面した現実は、平和な現在からは想像しにくいことばかりだ。

 渡波に住んでいた私は、石巻実業女学校に通っていました。戦争が激しさを増し、男子は陸軍士官学校や予科練へ、中学生、女学生は学徒挺身隊として動員されるようになっていきました。

 読書好きだった私はナイチンゲールにあこがれ、日本赤十字の従軍看護婦になりたいと思っていました。「戦地へ行くぞ」という意気込みでいたのです。昭和18年、父に反対されましたが、内緒で受験したところ湊にあった日本赤十字甲種救護看護婦養成所に合格して寮生活に入りました。

 本来3年かかるところでしたが、戦時中で2年に短縮。1年生の学習はハードで、日赤の信条である博愛精神を学んだり、医学の教科書は厚さ15㌢ほどもあり、暗唱に夢中でした。音楽、作法、茶の湯の時間もあり、それはホッとするひとときでした。ただひたすら学業に専心し、国の勝利を願っていました。

終戦企画2回目 中里さん

看護学生時代の中里さん(前列右)

 その後、戦局が厳しくなり、先輩たちが召集され南方の戦地へ行ったため、私たちは実務に回るようになりました。当時働いていた病院は、横須賀海軍病院の分院だったので、ラバウル航空隊の負傷兵がほとんど。その中には神風特攻隊などのパイロットもいました。手指が棒のように黒く焼け焦げたり、顔面をやけどした重傷者ばかりが運び込まれていました。

 ある日、死の間際の重傷者のケアをしていた時、「看護婦さーん」と呼ばれて行くと、「あの方を看てあげて」と絶叫した人がいました。そこを離れがたかったのですが、戻った時にはその重傷兵が亡くなっていました。厳しい状態の中でも他人を気遣う気品と清らかな心は今も忘れることができません。

 その後、米軍の空襲が来るようになると、私たちは編み上げ靴を履いたまま寮の自室の入り口付近で仮眠をとる日が続きました。

 ある朝、女川沖で海戦があり、漁労組合のトラックが傷病兵を乗せて何台もやってきて、たちまち廊下がいっぱいになりました。その時、空襲警報が鳴り響き、私は傷病兵を担架に乗せてサナトリウムのある丘の上に退避したのです。

 その直後、戦闘機がグーンと病院の上空から目の前に迫ってきて機銃掃射の弾が「ダダダダダン」と飛び込んできました。弾が木に当たって跳ね返る音が聞こえました。続いて、また一機。飛んでいくパイロットの顔が目の前に見えました。

 昭和20年8月15日。天皇の玉音放送があり、終戦。今までのさまざまな騒音がピタリと止みました。

終戦企画2回目中里さん近影

手記を寄せた中里さん

 戦後は渡波小学校で教員をした後、昭和28年に結婚を機に上京して、30年ほど教員を務め、退職しました。

 あの戦争によって絶望的に多くのものが失われましたが、それでも日本は立ち上がりました。終戦までの3年間は、何十年の月日を重ねても得ることができない貴重な体験だったと思います。

 命の大切さと人の持つ清らかな心に出会ったことは、なにものにも代えがたいものです。あらためて、命の大切さと人の心の清らかな愛を伝えたいと思いました。

 やはり平和で自由がいいですね。ただ子どもたちには、スポーツで心身を鍛えることや政治に目を向けて戦争を回避することを学んでほしいと思っています。【構成・本庄雅之】


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