母とわたしと、わたしの娘
【1/23追記】
これは、1月20日のわたしのことを衝動的に書き上げた日記です。
読み返したら、当日についてはほとんど触れていなかったけど、この日をそのまま残したいという気持ちから書き上げて投稿したものなので、わたしにとっては確かに日記なのです。
そんなつもりで読んでいただけたら、嬉しいです。
1月20日、母に「わたし、やっぱり発達障害だったよ」と告げた。
昨年の、今よりもう少し春に近いころ、「わたしは、発達障害かもしれない」と母に初めて話した。
「高校生くらいからずっともう10年以上悩んでいる」「頑張っているつもりなのに他人には簡単にできることができない」「頑張り続けないと自分が維持できない」「頑張るのがつらい」「ずっとつらかった」
一度話し出したら、涙も言葉も止まらなくなった。
思えば、わたしはそのときまで、自分が抱える負の部分について親に相談したことが一切なかった。父も母も兄もわたしも、口下手でも不仲でもなく、むしろ家族の繋がりは濃ゆい家庭だったと思う。強いて言えば、真面目な話をする場はあまりなかったくらい。
きっと、仮にあったとしても、話題にはできなかった。こどものころから家庭環境に恵まれている自覚があって、楽しそうにしている父母をいつも見ていた分、悲しませるのが怖かった。
こんなに恵まれているのに、生きているのがつらいなんて、お母さんが知ったらどんなに悲しむだろう。欠陥品だと、がっかりされるに違いない。
そんな思考で過ごしていた期間が、とてもとても長かった。長くて、とても辛かった。
社会人になって独り立ちしても、結婚して家庭が分かれても、両親への申し訳なさが消えることはなかった。物理的に離れることで会話する機会が格段に減って、このまま胸にしまい込んだまま、いつか消えてなくなるかもしれない、と期待した時期もあった。
そんな中、娘が生まれた。
初めての「母親」業は、わたしにとって恐ろしく難解な役目だった。今まで少なくとも表面上余裕ぶっていられた自分は、一瞬でどこかに消えてしまった。
夫に支えられ、時に噎び泣き、時に泣き喚きながら、なんとか進んでいた。せっかく近距離にある実家はなぜか頼り難く、行き来する頻度もゼロ歳児の育児にしてはかなり少なかったように思う。
わたしは、わたしなりに、頑張っていた、と思う。
昨年の冬が終わるころ、娘からもらった胃腸炎に倒れた。軽症の娘を病院に連れていき、一安心して帰宅してから急激に具合が悪くなって、立てなくなるまであっという間だった。
数回嘔吐した辺りで、マズいと思って母を呼んだ。すぐ駆けつけてくれて、そのときはまだ会話する余裕があったのに、30分もしないうちにどんどん悪化していった。すぐに一切動けなくなって過呼吸もひどくなり、母が救急車を呼び、総合病院に運ばれた。
その翌日には大量の蕁麻疹が現れて、母に近所の別の病院へ送迎してもらった。
その診察待ちの車中で、母が言った。
「あんなにすぐ動けなくなっちゃって。もっとしっかりしないといけないよ。引っぱたいて気合入れようかと思った。」
母は、同じ母になったわたしに強く在ってほしかったのだと思う。
瞬間、心がぽっきり折れた。
心が折れたわたしは、反射でうるんだ視界を誤魔化して、笑った。「そうなの?やだなあ」とかなんとか、震えた声で言いながら。
あのときあの瞬間に、ちゃんと泣いて怒ればよかったのだと思う。でもわたしは泣けなかったし、怒れなかった。
母の期待に応えられなかった自分に、前日もその日もお世話になりっぱなしの自分に、きっと激励のつもりで言ってくれた言葉に対して怒りを表す選択肢はありえなかったのだ。
その後しばらく、わたしの心の波はどん底を這っていた。
何日かあとだったか、それともその日の深夜だったか記憶は定かでないけれど、心が折れたそのときの状況と気持ちを夫に聞いてもらうことで、なんとか浮上できたのだった。
多少整理された心で考えたのは、わたしはいつか娘に、同じ状況で同じ台詞を言うのだろうか、ということだった。
言いたくない。少なくとも今のわたしは、絶対に言わない。
「頑張ったね、もう大丈夫」と言って、背中を撫でてあげたい。抱きしめてあげたい。「辛いことはちゃんと話して」と言いたい。娘にも、自分の気持ちを素直に話してもらいたい。
それはきっと、そのまま、わたしが母にして欲しいことだった。きっと、ずっと昔から。
同時に、母が私に対してそうしてあげたい、そうして欲しいと望んでいるかもしれない、とも思った。
そうして、「今更でも手遅れでもいい。自分の思いを、母にちゃんと伝えよう。」は決めた。
それからそれほど経たないうちに、思いの丈をできるだけ包み隠さず話した。
あのとき、あの言葉で心が折れてとても悲しかったというところから、わたしの不安定さ、そして、発達障害かもしれないということ。
今まで溜め込んだ分を一度にたくたん言いすぎて、母も戸惑ったのだろう。
少し困った顔で笑って、「それくらい誰でもある悩みだよ。そんな大げさに考えなくても大丈夫よ。」と言った。
たぶん、これまでだったら「そっか。そうかもしれないね。」とでも答えて、それでおしまいになっていた。
でも、その日、わたしは初めて踏みとどまった。
「そんな風に言わないでほしい。
そんな風に笑ってまとめられたら、10年も悩んできた自分がどこにも居なくなっちゃう。
苦しかったわたしを、いなかったことにしないで」
確かわたしは、そんなようなことを訴えた。
自分で答えて衝撃を受けた。わたしは、そんなふうに思っていたのかと。
このときの母は、わたしの言葉をどう受け止めただろう。伝えるので手一杯で、母の反応はおぼろげにしか記憶に残せなかった。
少し泣きそうだったかもしれない。
「急に言われたから驚いた」と何度繰り返していた気がする。
最後には、「これからも言いたいことはなるべく伝えたい」というわたしに対して、「そうしてくれると私もうれしい」と、たぶんそんなこと言ってくれたと思う。
その日を境に劇的に何かが変わったわけではなく、相変わらず実家は少し頼りにくいし、使わなくていい気を使ってしまう。
それでも、あの日があってよかったとわたしは思う。
1月20日、母に「わたし、やっぱり発達障害だったよ」と告げた。
検査の結果をきいて約1か月。母に伝えたい、いつ伝えるべきかと悩んで約1か月。
今日伝えられてよかったと、わたしは思っている。
おしまい。