「対象化」による誤謬、正論も失言もファンタジー?

我々は自分の顔を直接、今まさにそのままの形で見ることはできない
それができるのは他人である。

しかし、我々は大人になるにしたがって、「自分」や「自分の属するもの」について語る機会によく巡り合う。
その際、我々はすでに観測され既定された「過去」に基づいて、それらについての概略を述べることになる。

我々は自分自身についての過去は正確に語れるが『「現状」を説明する』ことはできない。なぜならそれはまだ私自身に観測されていないから。

ここにこそ、科学が「世界」や「原理」や「構成」ついて語るリスクの種がある。言ってしまえばこうだ。

この世界は「観測され・語られ・認識された内容」に基づいて逐次更新されいく。

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我々が「今」だと思っているそれは各々の解釈に則った認識が織りなす空想そのものであり、それを相互に認識し合うことで、「今」は「過去」になり「事実」になっていくのである。つまり、「今の自分」というものを観測することは永遠に不可能ということ。

見た瞬間、言った瞬間、書いた瞬間、考えた瞬間、思った瞬間、動いた瞬間、それは「過去」となり、今を変え、世界の構造を変える。(すべてを一連の「運命」とも言えるが、これは自己を完全に対象化した見方であり、感覚的に受け入れ難い。)

この世界で起こる相互認証による創造の例をいくつか挙げる。
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・神などいてもいなくても、ある男が「神を見た。」と言ったら、その事実は未来永劫残留する。そしてそれらが積み重なれば、神は創造される。その時、初めの男が本当に見たかどうかはもはや問題ではない。

・リンゴを食べたことのない男が、リンゴ柄のTシャツを着て、周りの人に「リンゴはおいしいぞ。」と言い回れば、誰がどう見てもリンゴ好きの男が誕生する。その時、この男が本当に食べたかどうかはもはや問題ではない。

似非科学だと非難されたものが、本当に似非なのかどうかは、世間の総意に基づいて決まる。(真相は徐々に薄く広く、無意識下で認知され、ある時ある場所で起こる認識を境に確立する。)

・経済とは「人間が0から作り上げた仕組みであり、経済学者と呼ばれる特権者がそれらしいルールを決めてきたゲーム」である。語られた中で最ももっともらしい理論が、以後経済を動かすルールとして作用し、財の流れはいつの時代もゲームマスターの手の中に、、

・科学的信憑性の要素の1つに「再現性の高さ」があるが、ある結果に対して検証実験を行う場合でも{時・人・状況・心情・目的}など、再現不可能な要素はあまりに多い。しかし人はそこに再現性なるものを見出すらしい。「一度起きたことは二度と起こらない。二度起こったことは三度起こる。」という。なんともめちゃくちゃだ。

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我々にとっての真実とは、事実如何に関わらず、「辻褄が合う」「整合性がとれる」と感じられることに他ならない。つまり、

実現象は認識なしには存在せず、認識は解釈なしには存在せず、解釈は実現象なしには存在しえない。


物心二元論に物申すなら、

時間の変化は意識なしには存在せず、意識の変化は物質なしには存在せず、物質の変化は時間なしには存在しえない。


この虚実混交の幻想の堂々巡りからは何人も逃れることはできない。

何人も、そう

"人"である"間"は。







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