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いつもと違う感じ方を生み出すカラダ。

酷い鬱状態から回復された方から

死にたいって思い続ける毎日が辛かったと

先生は死にたいって思ったことないでしょって

さらっと言われた。


現在のぼくの顔を見て、そんな言葉を発したんだろうけど

毎日39℃発熱していたときのぼくや

声が出なくなったときのぼくを見ていたら

その言葉は出なかったろうと思う。


とは言ってもカラダが悲鳴をあげるほどだったから

辛かったのは間違いないんだけど

言われてみれば

死にたいって思ったことはないかも。


それよりも

高校生1年の時に、電車のホームの白線の内側に立つと

電車がホーム進入時に1M先に足を踏み出せば

死ねるなぁって思っていた時があった。

毎回ホームでそんな感覚が生じるので

ちょっとヤバイなぁって思って白線から一番離れた壁際で電車を待つようになっていたからね。


進学校だった高校の生活に生きがいが感じられなくて

日々に飽いていたときに「魔」がさしていた時期だった。

あのときが今までの人生でもっとも自分から死に近づいた時だったと思う。


ぼくの場合は一番最初に心身の危機に陥ったのが

大卒で入社した東京海上だった。

そのときの経験でカラダの悲鳴、メッセージを採用しないまま進むと

死に至るなって本能的に感じた。

表情が無くなり

毎日39℃近い発熱をするようになったときも

死にたいって感覚は持ち合わせていなかった。


ぼくが体験したことがある感覚は

感情が動かなくなって

生きているって感覚が希薄になる感じだった。

それって生きながら死んでいる感覚とも言える。

けれども積極的に死にたいって衝動は伴っていなかった。


生き物が「生きる」って

カラダから湧き起こる要求に突き動かされていくのが自然なこと。

その要求は背骨の弾力やお腹の弾力が生み出している。

生きている感覚が希薄になったのは

背骨の、特に胸椎部の椎骨や腕の硬張りが生み出したものなんだよね。


死にたいという強い衝動を伴っていた冒頭の方の場合は

衝動を生み出していたのは硬張っている腰椎だった。

衝動は性と密接に結びついているので

生殖器の硬張りや、パートナーの性の力も深く影響している。


ただしどんなに酷くて深刻な在り方であっても

カラダが、背骨の弾力が回復できれば

ココロの在り方も変わっていく。


こころとカラダが分かれて存在している人間はいない。

学問上、分けて観ただけ。

生き物にとっては

生きていることが楽しく感じられないとか、死にたいと感じるって

実は深刻な状態なんだよね。


いつもと違う感受性が生じている背後には

必ずその感受性を生み出すカラダが在ります。

ちょっとおしっこを我慢しているだけでいつもと違う心になるでしょ。

くたびれてくるといつもと同じ応対ができなくなるし

実際に笑顔になりにくくなっちゃうでしょ。

腎臓がくたびれていれば陰気になるし

肝臓がくたびれてくると怒りっぽくなる。

見えないこころに働きかけるよりも

まず、自分でも見えるし、触れることのできるカラダに働きかけてあげることが最初の第一歩だと思う所以です。



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