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松本城太鼓門の玄蕃石
玄関など、お客様の目につく所に大きい石や美しい置物を置いたりすることがあります。特に城では権力の象徴として、石垣に巨石を使用する場合があります。
松本城の石垣で一番大きい石が、太鼓門の目立つ所に置かれた玄蕃石(げんばいし)という大石です。太鼓門は枡形[1]になっているので、外から入ると否が応でも目に入る位置にあります。
![画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/54303806/picture_pc_ec111b572349c30b766e7d430bdee998.jpg?width=1200)
高さ約4m、重量は22.5tある玢岩(ひんがん)です。玢岩は大きくは安山岩に分類され、石基がやや荒いものをいいます。
天守閣の石垣には山辺石(やまべいし。石英閃緑岩)が使用されていて、松本市東部、薄川沿いの山辺地籍で採取されたと考えられています。
玄蕃石も山辺周辺から持ってきたかもしれません。
その玄蕃石の運搬に関しては、次のようなお話[2]が伝わっています。
伊深(いぶか。現在の松本市岡田。別に山辺山という説もある)にとても大きな石がありました。太鼓門の脇に据えるのにちょうどいいということになり、石川玄蕃頭康長(いしかわ げんばのかみ やすなが)みずから石の上に乗り、お城まで運ぶことになりました。
ところが、石を運ぶ人々の中に一人、不満を言う者がいました。それを聞いた石川康長は石から飛び降りると、不満を訴えた者を呼びだし、大勢の前で首をはねました。槍をとると、その首を突き刺して高くかかげ、ふたたびその大石の上に飛び乗ると「者ども、さあ引け!」と大声で号令をかけ、石を引かせました。
この出来事があってから、その巨石を玄蕃石と呼ぶようになりました。
石川康長は石川数正の長男で、玄蕃頭(げんばのかみ)と呼ばれていました。その康長が運んだので玄蕃石と呼ばれたということです。
こういった恐怖統治は長続きしない気もしますが、それはさておき。
重機もない時代に、よくもこんな大きな石を持ってきたもんだと感心します。
松本城にご登城の際には、ぜひチェックしてください。
参考文献
[1] 枡形 (下図は松本城太鼓門の説明書きから抜粋)
攻めてきた敵を立ち止まらせ、そのすきに四方から敵を攻撃できるような形にした場所のことです。
外から侵入した敵は、最初の二の門をこじ開けたとしても、さらに奥にある一の門をくぐる必要があり、その前の広場、枡形で足止めされてしまいます。足止めしている間に、周り(この場合は三方)から敵に集中砲火を浴びせる事ができるわけです。
松本城は下図のようにクランク状になっていますが、直角に曲がらせたり、ぐるっと回らせたり、城によって様々な形の枡形があります。
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/54304879/picture_pc_2b829aa4bfde354d2ecb74b9f9bd98b4.jpg)
[2] 松本城管理事務所. "松本城伝説". 国宝 松本城. https://www.matsumoto-castle.jp/legend/476.html, (cited 2021/6/10)
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