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つながりながら立ち止まるー人生の学校で"自分"を思い出した28日間


「学ぶ」ことは、誰もが持っている“自分”を生きていくための力。


それが出来なかった時間があった分、「学ぶ」ということについて、ずっと考えてきました。

「『大人』は毎日仕事をしてお金を稼がないといけない」
「職業として『何か』をして、職業名を持って『何者か』でいることを続けないといけない」
「『社会人』として認められるだけの立派さがないといけない」
「『普通』の基準を越えていないといけない」


枠組みをつくって、そこにはまらないといけないことを課しているのは一体誰なのだろう。


春に仕事を辞めて半年、25歳の夏。

わたしは、前に進むために、1ヶ月の余白の時間を人生の学校で過ごすことに決めました。

この世の中ではまだ一般的ではない形の人生の歩き方かもしれないけれど、
この道を歩いたから今ここにいる自分を、わたしは誇っている。

「Compath」に足を運ぶまでの道のり
ー学校に行けなかったわたしが、大人になって“学校”を旅した


わたしは中学から大学まで、
不登校や中退、入院等を経験し、
「学校」「学び」とは距離のある10代を送りました。


自分にできることを探しながら、
福祉の勉強やボランティア、途上国での滞在といった海外経験など、
社会、世界と関わろうとしてきました。


そして大学の後半、
デンマークのフォルケホイスコーレ
Nordfyns Højskole(ノーフュンスホイスコーレ)」に留学しました。

フォルケホイスコーレは、北欧独自の大人の学校。
試験や評価のない、先生や学生が共に生活を送りながら学ぶ、人生の学び舎。

日本で出会ってきた学校教育とは違った学びの形、
余白を持つことを大切にする世界があることを知られたのは、
生きていくための大きな糧になりました。


卒業後、それに対する違和感がどうしても拭えず「就活」というものができなかったけれど、
それまでの社会の中で動いてきていただいたご縁が繋がり、
精神障害者向けの福祉施設で心の支援の仕事をさせてもらいました。

自分の過去の経験から力になりたいところに関わることが出来たのは喜びで、
人の力になることで自分自身が大きく成長させてもらいました。

しかし、2年間働き、
今と同じまま働き続けるエネルギーが足りなくなってきているのを感じ、改めて自分がどこで何をして生きていきたいのか、一度立ち止まって考えたい、とおもいました。

そして、今年の春に会社を辞めました。

そこからは岩手県陸前高田市の学び舎
Change Maker‘s  College(CMC)」に4ヶ月間滞在しました。

半島の小さな漁師町で、人と共に在りながら人生を考える学びと暮らしの場所。
一軒家で仲間と生活しながら、海辺や緑の中で穏やかに時間を過ごしながら、人と共に生きることと自分自身に向き合うことが出来ました。

CMCでの時間を経て、「あと少し」の感覚がありました。

自分が大切にしたい生活や働くことについて、
もう一息の時間があれば、なにかつかめる気がする。
不思議と確信のようなものがありました。

そしてCMCのコーディネーターの2人の繋がりで出会ったのが「Compath」。

次へ進むためのもう一息を過ごすために、このタイミングで通じた道だ。
そう思い北海道へ向かいました。

「Compath」ミドルコースと北海道東川町
ー日本で出会えるフォルケ・デンマークの空気ー


School for life Compath」は
『私のちいさな問いから社会が変わる』をコンセプトに、デンマークのフォルケと出会った2人がモデルにした場所を日本にもつくりたいと考え生まれた人生の学校。

その初めての28日間にわたるミドルコースに第1期生として参加しました。

キャンパスがあるのは北海道東川町
大雪山旭岳の麓にある、自然との調和と想いを大切にする人々の営みがあるまち。

まちから感じたのは「ちょうどよさ」
自然と共にあること、手の届く範囲に、素敵なお店や生活の場があること。

「有りすぎず無さすぎず」の情報量。余白の時間を過ごすのに、ちょうどよいところ。

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コースの中身にあるのは、
毎回ことなる東川町内外のゲストと共に学ぶさまざまな色を持ったプログラムと、
宿舎での参加者同士の共同生活、
東川町で過ごす余暇の時間。

平らな大地も、
心地良いデザインのある生活も、
余白の中の学びも、
至るところにある対話の時間も。

ノーフュンスでの日々ととてもちかい空気を感じました。

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留学してから3年。

自分がデンマークにいたことも日常の中には存在感はまるでなくなってしまっていて。

でもあの時間は大切な自分の一部分だった。

忘れていたデンマークで生きた「感覚」が戻ってきた。
「あの時」だけのもので置き去りにしない。

これまでの学びの時間も、
デンマークの時間も、
そしてこの東川町の時間も、
つながった自分でいきたいとおもいました。

ひと、社会、自分の等身大の姿ーコンプレックスという「ちゃんとつながった」証


プログラムでの時間、暮らしの中の時間。
参加者との対話や、個人で考えているとき。


ミドルコースの日々を過ごしていくうちに、
自分の中に「何か」反応しているものを感じました。


その正体は、根深いコンプレックス

学校に行けなかった経験からはじまる、
人と違う、「普通」から外れている、
人より足りない感覚。

社会と自分の間に壁がある、
同じところで話せない

自分にはそれが許されていないという感覚。

普段それ程強く自覚しているわけではないけれど、自分の生活のあちらこちらにその根っこは広がっていて。
無意識の中で自分の身動きを制限していたのだと。

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でもそれがわかったのは、
ひとと社会と「つながりながら」立ち止まったから。


誰とも関わらずにいるだけでは見えなかった。
自分がただ心地よいと感じることだけ選んでいる状態では見ることができなかった。

何が痛いのか。
何を守りたいのか。

穏やかに受け止められる、丁寧に取り扱えるだけの余白の中にあって、余裕があったから。

コンプレックスの姿をとらえることができた。


この28日間がコンプレックスをすっきりなくしてくれたわけではなくて。

ただ、自分がどこにいるのかがわかった。

まだ落とし込めてはいないけれど、
プログラムの中で、「普通」の枠組みのあるところかどうかではなく、
自分の色を持って生きているひとたちの姿をとらえ、
自分の中に置いておくことができた。

コンプレックスの存在を認識してからは、
そのフィルターを通してではなく、
ひとのことも社会のことも、
そして自分のことも、できるだけ等身大の姿を意識して見始められました。


プログラムの中には、
「デモクラシー」について、
北欧の方と繋がりながら学ぶ時間があり、

そこで、社会に対しても、意見を持てる、考えられる感覚が自分の中に戻ってきたのを感じました。

自分も社会とつながっている、その中の一人としていられるのだ、ということを体感できたのは喜びでした。

ひとのことも、社会のことも、知っていきたい。

世界の歴史のことや政治等についても、いちからやってみよう、と決め学び始めました。

世界のとらえ方の更新が起こりました。

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「学校」で生まれたコンプレックスを、
“学校”で思い出し、克服しようとしている。

これは、ちゃんと「つながろう」と向き合ったからこそ、得たもの。

次に進むために必要なだけの余白ー働くにもお茶の時間があるといい


春に仕事を辞めたばかりの頃も東川町に来る前も、
疑問を持つこともなく今自分のすることは、
自分の手持ちの選択肢の中で現実的にどう仕事を探していくかだ、
と思っていました。


それが、この学校で過ごす中で変わっていきました。

「決められない」の裏側にあったもの、
先のコンプレックスが、選択肢を狭めていたこと。

自分にはこれしかできない、これしかない。
就活もしたことがないから、普通にできない。


「できない」が前提の判断を、自分に課してしまっていたこと。

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プログラムの中でそれまでの日常ではあまり触れられなかった、
でも自分の感性を刺激するような体験をしたり、

そこから自分のこれまでの経験をとらえ直したり、一緒に学ぶ仲間と余白の時間で話したり。


つながりながら自分を見つめたら浮かんできた、今までは認識できていなかったもの。

自分が多いエネルギーを要すること。
「活きている」と感じること。
ひとの力になれているのを感じられること。
ちょうどよい熱量で心や体が動くこと。


「自分」を形作っている特性の色々を大切に取り扱えて。
「できない」スタートではなく、可能性を感じるものを手に取っていってみる、
そんな働くことの考え方が自分の中に生まれました。

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ブレイク、ひと休み。


デンマークのフォルケでは毎日お茶の時間がありました。
クラスの合間にお茶とお菓子をとりながら、
学び舎の仲間と共に会話したりぼーっとする時間。


「ひと息つく」穏やかなゆとりをもつ習慣は、働くこと、人生の中にもあっていいのでは、と。


自分が活きる仕事、
心地よいとおもえる生活を、
丁寧につくっていこうと模索を始めました。

つながれる、学び続けられるーかつて失っていた自分が導いた希望のあるところ


ここで感じたことの多くが、
「思い出した」という言葉が
いちばんしっくりくるものでした。

デンマークやフォルケでの体験。
無意識の下にあったコンプレックス。
働くことに関する自分の色や望む暮らし方。


持っていなかったのでもない、
失っていたのでもない。


弱くなっていた感度が戻る、
抑えられていたものが軽くなる。

そうして「思い出した」もの。


「つながり」もなかったのではなかった、
等身大の姿をとらえて気づけた。

人と社会との距離感も心地いいところを探して、つながっていける手ごたえを得られた。

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このミドルコースの時間で、
わたしは久しぶりに「本を読む」ということ
そのものを楽しむことができました。

余暇の時間、
ずっと読みたかった小説や
参加者とシェアした本を読んで。

それまでの日常では、
「何かためになること」を「読まなきゃ」という心持で本と付き合っていて。

文字を通していろんな世界に入って心が豊かになること、
好奇心の赴くままに知りたいものに手を伸ばしていくことの、心地よいこと。


プログラム、対話、まちの中での体験、共同生活…

「学ぶ」ことと自分との間にあった距離感は、
ぐっと縮まって、
本来あった近かったところに戻っていきました。


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「森の長老に会いに行く」プログラム。

手足をつかって、木の棒の杖をついて、
自然な姿の森の中を、
歩く、つかまる、踏ん張る、昇る、降りる。

全身を使って地球を感じた時間。

その次の日に行われた、
「暮らしのライフツールづくり」。
木片から、ずっと欲しかったスプーンを、自分の手で現実にしたこと。

四足歩行の動物の方がもっと器用に森を進めるかもしれない。
でも、二足歩行を覚えた人間が脳を発達させて今があること。
全身で体感したこと。

頭と心と体を動かして、自分の手から生まれた尊い作品を手にしたこと。


ふたつの異なるプログラムをした2日間で、
わたしは、「人間」にしか、
「自分」にしかできないことをして生きていきたい、
ということを考えました。

それが何かそれはあるのか、今はまだ、わからないけれど。


自分も、ひとも、社会も、地球も。
等身大の姿を、
時には見失ってしまってもいいから、
時々立ち止まって思い出しながら、

自分の今を選んでいきたい。

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かつて学べなかった自分が、学びの旅を経て。

学校に行けなかった体験があったから、
ずっと考えてきたから、ここに来られた。


「この自分」を生きていくこと。

ひととは違うかもしれない、
でもオリジナルなわたしの人生があること。
このちいさな自分が存在していることが、
社会をつくっている。


自分を表現していくことで
何か、変わっていくかもしれない。

「つながり」を取り戻したから、思えるようになったこと。

人生の中に余白を持ちながら、
自分の現在地を確かめながら、
いろんなかたちで学び続けられる。

学びの形はきっとこれから広がっていく。

Compathの存在はその希望のひとつ。

「今こんな世界にいるよ、」と伝えることができる。
10代の自分が導いた先に出会えたもの。


この28日間があってよかった。

一度立ち止まって、
でも人や社会ともつながりながら、
この時間を過ごしたから。

等身大の自分の姿を見ることができて、

いろんなものとつながって存在している「自分」を思い出して、生きていこうと思えました。

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経済面での問題を解消して、この余白の学びの機会と素敵なまちの暮らしの時間をいただいた、そのご支援と東川町の方々に感謝を。
愛着の生まれたまち、そしてCompathの仲間とこれからも繋がっていきます。
想いをかたちにして学び舎という希望をつくってくれたかおるさん、さきさんの二人、28日間を共に過ごし学んだみんなに。Love,

Chee

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