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パリ軟禁日記 38日目 奇妙でありふれた体験

2020/4/23(木)
日常におこる、奇妙でいて、ありふれた体験。
ランニングの後は浴室に直行する。シャンプーをした後、泡立てた洗顔料で顔を洗う。そのまま髭を剃って、流す。今日はどんなことがあったかな…。自分は今ぼんやり考え事をしているな、と思った次の瞬間、僕はバスタオルを持って身体を拭こうとしていた。

あれ、身体は洗ったっけ??

まったく記憶がなかった。頭→顔→身体→流す→拭く、のルーチンに突然入った断絶。いつも使う合成繊維のオレンジのボディタオルは濡れており、シャワーの横にかかっている。右手と、ボディソープのクリアブルーのボトル。このポンプ部分を押した手応えの余韻を感じ取ろうとしたけれども、確信が持てない。念のため、身体を洗うことにした。いつも通り、ポンプ1回半。泡立ちは良くもなく、悪くもなかった。

ゴゴゴゴゴ・・・・・

似たようなことは仕事でもある。「あのメール送ったっけ?」が典型的な例だ。確信が持てない時は送信メールを検索すれば一目瞭然だけれども、そこでしばしば僕は驚く。

「こんな文章、まったく書いた記憶がない。」

それでも、目の前には完全な証拠が残っている。何月何日の何時に、ちゃんと僕のメールアドレスから送信されているのだ。狐に化かされたのか、別の人格が自分の中にいるのか、はたまた脳が溶けているのか、すっきりしない気持ちを感じつつ、僕は日常に戻ることになる。

ドドドドドド・・・・

こういった奇妙な体験して最初に思い出すのは、ジャンプで未だに連載が続く『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズだ。少年誌の定番である、主人公と敵の能力バトルを大胆な設定とサスペンス要素満載で描く人気作。その中で「時間を数秒消しとばす」という敵がいる。消し飛ばされた数秒は、その攻撃を受けた者は認識できず、後に残るのは結果だけ。過程は存在しなかったことになる。催眠術だとか超スピードだとか. そんなチャチなもんじゃあない。

ゴゴゴゴゴゴゴ・・・

時が過ぎるのを忘れて、という表現はしばしば用いられる。時間というものは不思議なもので、時計で測れば同じ数秒でも、自分がどういう心境か、何をしているかでそれは長くも短くも感じられる。短距離走者のようにコンマ何秒の濃縮された時間を生きる人がいる一方で、セーヌ川の河岸に腰掛けてのんびり夕陽を眺め続ける人もいる。永遠に感じられる数秒があれば、数秒に感じられる永遠もある。

ドドドドドドドド・・

時間の相対性は、科学的にもアインシュタインが証明してくれている。光速に近づくことで時間の進みが遅くなる、というやつだ(間違っていたら教えてください。私は文系卒です)。それでも、時として、僕は夢想してしまう。誰も気がついていないだけで、外的で大いなる存在によって僕たちの時間が「飛ぶ」ことが起こっているのではないか、と。僕の記憶が飛んでいたその数秒間、他の誰の記憶にも同じことが起こっていないなんて証明は、まだ誰もしていないのではなかろうか。

ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ・

今日はなかなか速く日記が書けた、と感じたけれども、蓋を開けてみればPCの前に座って2時間近く経過している。2時間というのは長いようで、短い。長編映画1本分の長さ。今日は少なく見積もって数秒、ひょっとしたら数分は消し飛んでいたかもしれない。


失われた時間を求めて、今夜も僕は眠りにつく。
明朝、起きたら部屋にトラがいる、なんてことがないことを祈りながら。

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