パリ軟禁日記 33日目 安心と安全
2020/4/18(土)
どこまでが安全で、どこまでが安心で、どこからが危険か。
ことヤツについては、妻の方が危険度を判定するセンサーの感度が良い。免疫力を高めるためにビタミンCを摂る、外出後は風呂場に直行してシャワーを浴びる。外出時に身につけたものは洗濯機にダイブ。外出禁止令が施行される以前の僕は、正直そこまで徹底していなかったけれども、ここ1ヶ月で行いを改めた。妻のやり方に合わせておく方が、どうしたって僕たちの生存確率は上がる。
例えば本日、ネットで注文した中華系食材が家に届いた。このように、外から家に入ってくる異物については消毒液をつけた布でふく、もしくはウイルスが死滅すると言われる72時間以上玄関に放置。食べ物のデリバリーを介した感染も報告されているからだ。幸い消毒液はまだ残っている。ここまでやるか、という程やっておいて悪いことはないだろう。杞憂に終わればそれでいい。
安全/安心/危険の境界線は文化や人によって大きく異なる。例えば、遺伝子組換えの野菜と有機野菜。即座に僕たちの生命を脅かさないという意味ではどちらも「安全」なのだろうけれども、後者の方を「安心」と思う人は少なくないだろう。ことフランスは有機食品(ビオ食品)の人気が高く、食の安全に対する意識は高い。一方、マスクについては今にしてやっと多くのフランス人がつけ始めた。僕の肌感覚では、街中の半分程度の人がつけている。それ以前はほぼゼロだったことを考えると大きな変化だ。マスクから鼻が出ている人もよく見かけるけれども、あれはあれで彼らにとっての「安心」なのだろう。
その意味において、改めて、安心という感情は厄介なものだとも思う。それは、僕たち個人が持つ世界の認識そのものだ。要は、僕たちの心が「安全だ〜」と感じることができればいいわけで、ことの真相は問わない。楽しく散歩していたところが実は地雷原で、たまたま地雷を踏まなかっただけということは往々にしてある。この安心という感情は僕たちの生存本能、遺伝子に深く刻まれていて、まるで麻薬のように僕たちを突き動かす。一人ではない安心感を得るために友人や恋人をつくり、何かあったときのために保険に入り、老後の安心のために貯蓄をする。
ふと読んだ日本の記事にあった「オンライン銭湯」。銭湯のお湯が流れる様を撮った映像なわけだけれども、不思議と見ると心が安らいだ。水の流れる音がそうさせるのか、過去の記憶がそう感じさせるのか、分からなかった。それでも見ている数分は確かに「いい湯加減」な気持ちになる。この感情の怪しさに気が付きつつも、僕たちはこの感情を追い求めずにはいられない。さあ、今日はお風呂に入ろう。
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