【小説】『規格外カルテット』8/10の中

 ハニーポイズン側。

(10回中8回目の中:約5000文字)


 感染症による暴風雨、に対抗でき得る特効薬は、何を隠そう二夜目の逢瀬だったり致します。
 と、言いますのもこの暴走は、処女を失った自分に以前と変わらない価値を見出だしてもらえるだろうか、今後は手のひらを返すように冷たく扱われたらどうしよう、といった、根源的かつ本能的な恐怖が巻き起こしているものでございますから、あら二夜目も変わらないわこの人、それどころか前よりのめり込んでくれるみたいだわと、己が身で感じ取り切れたなら瞬く間にすがやかに、晴れ渡るのです。
 従って繰り返しになりますが処女だけを奪って逃げたような下郎は、たとえ「一夜限りの逢瀬」などといった美しげな装飾を施されていても許すまじ。二夜目こそが真価を問われると、わたくし白井みるは信じてやまないのです。
 こうした関係を持ってまだ日が浅いものですから、
「話したい事がある」
 とベッドの内で囁かれましても、一旦気を落ち着けて、身を整えてからにして頂かないと。幸いにして大さんは、その旨を聞き分けて、御自身も隠すべきところを隠して下さいましたけれど。
「炭酸、飲みます? 持って来ましょうか」
「ありがとう。ああごめん、一緒にチョコレートも」
 言われて冷蔵庫を見ると、私が差し上げた高純度カカオのチョコレートが、きちんとナイフを使った直線で切られて、あと3分の1ほど残されていた。口に合わないと仰っていましたのに。
「何も、無理をして食べて頂かなくても」
「毎日少しずつ、食べていくうちに慣れてきたかなって」
 あ。決して好んでは下さらない。はっきりなさっていて清々しいのですけれども、いつも少しばかり哀しいのです。
「それで、その……、話したい事って?」
 ベッドの端に腰掛けて、サイドテーブルできっちり四角に割ったひと欠けを、口に溶かして炭酸水と飲み込んだ後、
「前に、話してくれたお兄さんの事なんだけど」
 そう聞こえた内の特に「お兄さん」の一語が、頭の中の景色を一気に暗いものへと変えた。
「今、もしかして会えるとしたら、会いたい?」
「分からない」
 良く見れば細かく分かれたその一つ一つは、ため息が出るほど美しかったり、目がくらむほどに輝きを放ったりしているのに、集まって積み重なった全体は、薄暗い中でどす黒く、触りたくもないくらいに汚ならしくて、
「分からない」
 父には珍しい怒鳴り声や、育て方を間違えてごめんなさいごめんなさいと、泣きながら父に繰り返し、謝り続ける母の声。母の泣き声にかき消されて、扉にも隔てられて届きにくかったもう一つの、きっとそばで聞いていたら痛ましかったはずの。だけど、そうした景色を一人だけ離れて眺めていた、私自身の顔が、頭の中では一番どす黒くて見えないし見たくもない。
「分からない。分からない大さん。ねぇ大さん分からない分からないの!」
「分からなくて、良い」
 普段から意識してお腹から出すようにしている声が、聞こえてくると私は今この時間にいる自分の、目の前の景色に引き戻される。
「今答えを出してほしいわけじゃないんだ」
 黒い目の色が日本人では当たり前、なんだけれど私には特別に深い黒に見えて美しいと思う。
「会いたいけど会いたく」
 あいたい、と聞こえた時点で身がすくんだから多分、
「会いたくないわけじゃない」
 大さんは言い方を変えてくれた。
「だけどお兄さんは、喜ばないと思っている」
 頷く。
「お兄さんに、悪い事をした、とか」
 聞こえてくる言い方に合わせて、首が動いてくれるままに任せる。
「それは、みるさんがやった事?」
 動けずに固まった。
「その悪い事は、みるさんがそうしようと決めたり、実際に手を出したり」
 左右に振る。自分でも、思っていた以上に強く。
「そうなっていくのを、止められなかった、って感じかな。だけどそれは」
 頷きかけたけど、言葉が続いているみたいでためらった。
「みるさんが、止め切れた事?」
「止めるべきだったって、兄の友人や、兄に近い人たちは」
「それは関係無いんだ。みるさんが声を上げて、出来る限りの大声で訴えて、聞いてもらえた? 今振り返ってどう思うかじゃなくて、その時に、聞いてもらえるって思い切れた?」
「いいえ!」
 聞こえた途端に思いがけない強さで、飛び出してきた。だって、止めに入ったなら私も同じ強さで、否定されるって、同じような声に言葉に、感情をぶつけられるって、分かってたから分かり切っていたから!
 だけど、結局それは、保身だ。ただ自分の身が可愛くて見棄てたんだ。父や母と何も変わらない。
「それならみるさんが苦しまなきゃならない事じゃない」
 頭の中で鳴っているものとは全く違った響きで、一瞬外国の言葉でも聞いている心地になる。
「他の誰がどんなふうに言ってきても、僕はそう思う」
 これまでの私の周りからは、聞かされた事の無い声色に言い方で、嬉しくてすがり付きたいけど本当に、私が受け取っても良いのか、受け入れても許されるのか恐ろしくなる。
「ごめん。先にこう訊いた方が良かったかもしれない。彼の事は好き?」
 好き、じゃないなんて選択肢は、初めから私達に無かったように思うけれど。
「家族、って事はちょっと脇に置いて、みるさんにとって神璽さんは、欠点もあっただろうし何か問題を起こしたかもしれないけどそれでも、好感とか良い印象が持てる人?」
「はい」
 そこはどうしても、兄だから、といった感覚までは消せないけれど、私にとって私個人に対しては、兄じゃない、兄なんかいない、と思い込んでしまいたいほどの、悪い言動はされなかった。悲しかった苦しかった扱われ方は全て、兄の他の誰かからだ。
「愛しています。もちろん大さんとはまた違った意味で、大さんには及びませんけれど」
 そう口にするとようやく、顔が上げ切れた、けれど大さんの方では広い手のひらで顔の全体を覆ってうつむいている。
「どうなさったの?」
 いや、その、何も、と珍しくはっきりしない調子で、なかなか顔を上げてくれない。
「……どうして急に兄の話を?」
 手のひらで強めにこすってから、うん、と上げてきた顔は、いつも通りに落ち着いて見える。
「僕の職場に、半年前くらいから通うようになって、先月辺りから僕が担当している利用者さんが、多分、お兄さんじゃないかと思ってる」
 駐車場で聞こえた声は高めで反響していたから、女の人だと思い込んでいた。一瞬頭に浮かび上がった顔もあったけれど、そんなはずはないって打ち消して。
「みるさんから下の名前までは聞けていなかったけど、神璽、だよねやっぱり」
「まさか」
 兄の顔に名前が、はっきり形を取ったその途端、私の目では見ていなかったはずの光景まで鮮明に、その場にいたみたいに浮かんできた。
「あなたに告白した方って、もしかして、兄ですかぁっ!」
「そうだけど。有難いくらいに察するのが早いね。双子だからかな」
 そうと分かると私は、耳まで赤くなるのを感じながら、今周りにいる人達に頭を下げずにいられない。
「ごめんなさい、ごめんなさい大さんっ! 兄がっ、恥ずかしい真似をっ。とんだご迷惑をっ」
「みるさん」
 両側から肩にふれられて、見上げると大さんの顔が少し困っている。
「迷惑は、かけられてない」
「え?」
「ちょっとは困ったけど、今はほとんど何の問題も無い。みるさんが、謝らなきゃいけない事じゃない」
「私達は双子だから」
 少しだけ戸惑った顔をして、
「兄が誉められる時は私も誉められたし、兄が誰かを怒らせた時は私も後で叱られたわ。小さな頃からずっと、両親からも」
 少しだけ眉をひそめてくる。少しだけ、なんだけど普段の表情がほとんど変わらない人だから、少しの違いでも不快に思わせた事が伝わってくる。
「兄を追い出してからも、父が言うには、汚れてしまった兄の血を、私も分け持って生まれているはずだから、何を言うにも行動するにも、慎重にならなければいけないよって」
「最低だな」
「え?」
 これまでに聞いてきた、誰のどんな言葉よりも私には、恐ろしく響いた。だけど不快じゃない。どうして今の言葉を思ったのか、聞きたいし聞いていられる。
「血とか汚れとか、親が子供に聞かせて良い言葉じゃない、と思う。僕は」
「我が子をこの世の汚れから守り抜く事が、親に課せられた、最も崇高な使命じゃないの?」
 幼い頃から繰り返し聞かされてよどみ無く出てきたその一連を、聞くなり大さんは、表情を消して、
「おいで」
 と私に向けて腕を広げてきた。従って内側に収まると、頭も撫でてもらえてあたたかくて、恐ろしさがやわらぐ。
「僕は、汚れていると思う?」
 父が今、この様子を見ていたならそう言ってくるかもしれないけれど、今や大さんに感染し尽くした私の立場でそんな事はまさか、心にも浮かぶものですか。
 腕の中で首を振ると、
「じゃあみるさんも汚れてない」
 って少しだけ、笑みを乗せた声で言ってくれた。
「お兄さんも、何があったかは分からないけど、何があったって人の血に魂みたいなものが、汚れるはずはない」
「それは大さんの御信仰?」
 御信仰、と口にした時に大さんの腕が、わずかだけど明らかに強張って、ああ大さんでもさすがにこうした話は無理なんだなって、少し舌先を噛んだ。
「信仰、じゃないな」
 信仰を持っている、家に生まれ付いてしまうと、行く先々でそのひと言を口にしただけで、引かれてしまったり身構えられたり、不快感を明らかに示されたりもして、安心して話が出来る人達は、昔から知っている、いつも同じ場所で顔を合わせる人達ばかりになってその中で、嫌われるわけにも家族を嫌わせるわけにもいかなくなって。
「僕は、ただ知っているんだ。人が、他の誰かの内面を正しく見極め切れるわけがない。だって神様以外はみんな、人間なんだから」
 信仰を、否定されたわけではないように感じて腕の中から大さんの、顔を見上げた。
「人は、誰でも過ちを犯す。それは確かだ。だから、誰かを『過ちを犯した汚れた者だ』と思っている事自体が、過ちかもしれない」
 いや、とちょっと言葉を切って、大さんの方でも腕の中の私を見詰めてくる。
「きっと、そうだろう?」
「そこを正しい行いへと教え導いて下さるのが神様だと」
「教えてくれないよ」
 首をゆったりと振りながら大さんは、少し微笑んでいる。
「教えてもらえたとして、それを正しく聞き取れて、正しく周りにも伝え切れる人なんか、全くいないわけじゃないかもしれないけど、それが例えば僕だなんて、僕なら絶対に思わない」
 目は伏せがちで穏やかだけれど、厳しくも感じる微笑みで、私は教典を思い出す。
「人を、正しく裁き切れるのは、神様だけだよ。それなのに、周りの人達に親が、まるで神様の代わりでも出来るみたいに、それって、僕には蜂蜜みたいな感じがする」
「蜂蜜?」
「うん。甘ったるくて、口当たりだけはやたら良いけど、子供には毒だ」
 誰が上手い事言えと。
 という、どこかで目にした文章が頭によぎってつい吹き出してしまったけれど、いけないわ未来の夫と心に定めた大さんの前で。
 恐るべき事に感染症による暴風雨を乗り越えたこの身には、副次効果として、いざという折々に感染源がお好みになるだろう表情に声遣いに言い方が、もう手に取るように察せられてしまうのです。
 あくまでも「お好み」、ですから常に正解が得られるわけでも、良い結果に導かれるとも限りませんけれど。
「……私、もう子供じゃなくなったと思うの」
 少し赤らんだ頬を隠さずに上目遣いで囁いて差し上げると、大さんは笑みを強めて、
「そんなつもりで言ったわけじゃないけど、まぁそうだよ」
 と抱き寄せる腕の力も強めながら囁き返してくれた。
「もう子供じゃないんだから、そんな毒、効かないんだよ」
 誰うま(2回目)、
 と心の内に現れ出た事は、大さんには内密に致しました。

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