意思決定の積み重ねが自分の生き方を決める 〈君たちはどう生きるか〉
この映画には、「私たちがどう生きればいいのか」がメッセージとして込められていると予想していたが、それは驚きともに裏切られた。
この映画が見せてくれたのは、「私たちがどう生きるべきか」ではなく、「どのような生き方があるか」だったと思う。どのような生き方があるのか、つまり、生き方とはそもそも、どのように決まるのか、である。
私が思うに、「生き方」の要素は、2つあるのではないかと思う。
「意思決定」と、その「動機」だ。
生き方の要素① 意思決定
「意思決定」とは、自分でなんらかの決断をすることである。『人生は決断の連続だ』とあるように、私たちの生活はなんらかの意思決定によって成り立っている。朝、何時に起きるか、朝ごはんに何を食べるか、どんな服を着るか、など、日常生活というルーティーン化されたような日常的な行動も、意思決定が絶え間なく行われている。そこにどのくらいの労力をかけるか、どのくらい思考するか(=意思決定の質)は、その意思決定の内容や、体調・気分などによって変化するだろう。
生き方の要素② 動機
「動機」とは、その意思決定をするにあたっての経緯や、自分の心の動きである。
ちょっとくどくどと説明してしまったが、生き方を決めるのは、この意思決定と動機の2つだとイメージしてもらえると良い。
また、上の例での状況に当たる部分は、個人ではある程度コントロールできないものであるのに対し、動機、意思決定は完全に個人のコントロールの範囲内にある。つまり、これらの範囲が、私たちの「生き方」として最後に表出する部分だろう。
なぜ、この2つが個人の「生き方」を構成し、これらがなぜ重要なのかの理由は、この「コントロール性」にある。自分の裁量がある状態において、何をどのように決定したかは、個人の価値観に強く結びついているからだ。
周囲の状況や境遇というのは、確かに自分の過去の意思決定に影響するところもあるが、それらは同時に意思決定の結果であり、自分以外の他者や社会からの反応というコントロールできない範囲での話になる。
私たちはどれだけ意思決定に自覚的に、良心的に向き合えているだろうか
映画を見ながら、私に浮かんできた問いである。
物語では、主人公はアオサギを始めとした不可解な生き物たちと不可解な世界で少しの間暮らすわけだが、作り手は、それぞれがそれぞれの立場で正当性を持って存在しており、それこそが「生き方」だということを示そうとしているのではないかと思った。
それと同時に、同じ社会であっても、そこに通底する正義のようなものはなく、より良い世界というのは、私たち一人一人が、どれだけ純粋に、かつ善良な動機をもとに、意思決定できるかに委ねられているのではないか、と。
境遇として、たまたま特権や権力を手にする者もいるだろうが、それらは偶然にすぎず、奢りは禁物である。むしろ、結果的にそういった大きな影響力を持ってしまったものには、より自覚的に、良心的に自らの意思決定を積み上げていくことが大きな責任として課されるということである。
私たちはどう生きるか、向き合い続けなければならない。
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