こうして私は「病気」になった。

はじめてのnoteなので、とりあえず自己紹介的に私が病気になったきっかけをダラダラ書いていこうと思う。本当にダラダラ書く。​

まず、私が現在抱えている外的要因による「病気」は赤面恐怖症、自傷皮膚症、摂食障害、広場恐怖症とパニック障害、うつ病である。これらの病から逃れたくて自殺未遂も何度かした。

これ以外にも、内的要因によるものではあるが月経困難症や自律神経失調症、便秘症に不眠症に偏頭痛に花粉症など、大から小まで様々な不調を抱えている。しかしなんだかんだ今もこうして元気に生きている。

今回は私が外的要因による「病気」を発症するきっかけとなった”外的要因”の部分の話をしたいと思う。

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父、母、姉、私、妹の5人家族。一軒家で母は専業主婦。3姉妹とも私立高校。大学の学費も親が負担し、金銭面で何かを諦めなければならない状態になったこともない、経済的に果てしなく恵まれた家庭だ。

しかし、怒号と暴力が飛び交う夫婦喧嘩の絶えない家庭でもあった。私が高校生になるくらいまでは事あるごとに喧嘩していた気がする。そんな環境で私は育った。

おそらく、私が「病気」になったきっかけの大半は小学生時代だ。そして発症に大きく関わる人間は「父親」である。性被害ではないが、 #私が父親を嫌いになった理由 に近しい部分もあるだろう。

始まりは小学校2年生のときだった。

私がベネッセの赤ペン先生(教材の最後に添付されてるテスト)を3ヶ月ほど提出せずに溜めていた。
衣装ケースに隠されたソレを見つけた父は、言葉で叱るとかではなく、小学校入学時に買ってもらったばかりの勉強机を、目の前で破壊しはじめた。

本当に勉強机の板を一枚一枚「勉強する気がないなら、こんな物いらねえもんな」と怒鳴りながら目の前でバキバキに壊していった。すごい恐怖だった。全てを壊し終わったら殺されるのではないかと思った。

その日から、なんと私の呼び名は「ゴミ」になった。やるべきこともできない人間はゴミだからという理由だ。ごもっともである。

しかし、小学校2年生の頃の私には理解しがたい苦しさだった。私から父親に話しかけても完全無視。リビングにいれば「じゃまだゴミ、消えろ」と言われる日々。家族でのお出かけも私だけ連れて行ってもらえなかった。いないものとして扱われた。

ほとぼりが冷めた頃、父は気が向いた時にランドセルの中身をチェックするようになった。鉛筆が全て鋭利に削られていなければ、階段からランドセルをぶん投げられた。時間割の教科書が学校のロッカーに置き勉されていれば今すぐ出て行けと言われたり、身体をとにかく蹴られた。脇腹を蹴られることが多かったので私はダンゴムシみたいに丸まり、衝撃を緩和する術を覚えた。(ちなみに置き勉は学校的にOKだったが父は認めなかったのである)

お箸の持ち方が不恰好だったときも、食器をひっくり返され、箸が正しく持てるまでご飯を食べさせてもらえなかった。母がこっそり夜中に部屋までご飯を持ってきてくれたが、それがバレて母まで父に怒られていた。「おい、なにしてんだ」と母に呼びかけた瞬間の、低くて冷たい声と張り詰めた空気を今でも覚えている。思い出すと動悸で苦しくなる。今思えば、社会に出る前に正しくお箸を持てるようになったのでありがたい教育だったのかもしれない。

しかし、小学校2年生〜4年生頃に起きたこれらの事象で、私はどんどん人に見られることに恐怖を感じるようになり、赤面恐怖症が顕著に表れるようになっていった。このときすでに私は対人恐怖症に陥っていたのだろう。特に男子生徒含め男全般が怖かった。大きな声や音にも恐怖を感じ、教室で自分とは関係ない生徒が教員に怒られているだけでもなぜか恐怖を感じ苦しくなった。方向音痴で道に迷っても誰にも道を聞くことができず、何時間も知っている道に出るまで彷徨うこともあった。どんどん人と接することに勇気を持てなくなっていった。

人前に出た時のみならず、男と会話したときにも、意図せず顔が赤面する。それは少女漫画のように、頬が赤く染まる程度なんかではない。そのまま頭がパンッと音を立てて弾け飛ぶのではないかと心配されるほどに真っ赤っかになるのである。それを指摘されればされるほど、さらに赤さは増し、恥ずかしさと、惨めさと、混乱でその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。

小学校中学年になるとさらに新たな問題が発生する。体型を気にするようになったのだ。というのも、その頃の私は、小学生にしては身長が高く、その分、体重もあった。今思えば身長に対して適正な体重だったが、自分より身長の低い同級生の体重と見比べて、自分はデブだと思っていた。

祖父母がふざけて言ったであろう「デカイ」「デブだから食べるな」やら、父親からの「ブス」という言葉も拍車をかけた。悲しいことに私はまだ人間的に未完成であるにも関わらず、自分はデブでブスだと思い込んでいったのだ。

しかしダイエットしたくても母親がつくるご飯は残せない。なので、とにかく口に溜め込んではトイレで吐き出すことを繰り返していた。おそらくこれが摂食障害のはじまりである。

次第に、自分を恥ずべき存在だと認識するようになっていった私は、どんどん自分という存在を押し殺し、傷つかないようにするための鎧を手に入れていった。それは自分が苦手意識を持つ「男の子」になりきることだった。

「男の子」になることができれば、男の前で赤面恐怖症が出た時に「好きなんだ」といじられることもきっとなくなる。女の子らしい仕草をしなくなれば、自分の見た目をいじられたり、女の子でいることを否定されることもなくなる。自分が傷つくであろうアクションを最小限にしたかった。

だから、自ら自分の醜い部分をさらけ出し、自虐的なおちゃらけたキャラを演じた。そして自分を男の子だと思って過ごした。髪は常にベリーショートでズボンしか履かず、持ち物も服も口調も男になりきっていた。(確か一人称も「僕」だった。)

そんな、自分を偽りながらの生活で小学校高学年へと成長していく。高学年になるにつれて腹痛が酷くなり、45分の授業時間を耐えるのすら難しいほど、腹痛に生活が支配されるようになっていった。

朝はトイレに1,5時間こもるために早起きしていた。気弱と赤面恐怖症のせいで授業中に手をあげてトイレに行くなんてもちろんできない。そのうち教室に入ることすら辛くなり、気づけば保健室登校になっていた。教室には行かず、保健室で授業プリントや本を読んだ。たまにそんな自分が惨めで、悔しくて、誰かに気づいてもらいたくて、堰を切ったように泣き出し保健室の先生を困らせる日もあった。本当は学校を休みたかった。

ちなみに一度だけ、私の保健室登校を知らない父親に仮病を使って「気持ち悪いから休みたい」と伝えたことがあった。父親は「目の前で吐いてみろ」と言って私がトイレで吐くまで待った。そして吐けない私の腹を蹴り上げて怒った。なので学校は休まずに保健室登校を続行した。

そんな父なので、私は父の機嫌が悪い時はとにかく逆鱗にふれないようにひっそりと、緊張感を持って過ごしていた。またいつ怒られるかわからない。どんな言葉が、どんな行動が、父の怒りに触れるかもしれないと呼吸の一つも失敗できないというような具合で張り詰めて生きていた。

ただ、私はなんだかんだ自分が愛されている実感がほしかったのだろう。父や母の気を引きたくて、心配してもらうことで「自分はまだここにいていいんだ」という安心感を得るがために自分を傷つけはじめた。始まりはとても小さなことだった。私は自分の指のささくれをこれでもかと剥いた。髪の毛も力に任せて抜きまくった。

髪の毛は特に気にも止められず、禿げるのも嫌だったので徐々に抜くことはなくなっていったが、ささくれを剥くのはやめられなくなった。一度だけ、母親に爪切りでささくれとその周りの皮膚をめくられたことがある。そこから手持ち無沙汰なときやイライラした時、とにかく皮膚を剥くと落ち着いた。血が出てもやめられなくなっていた。ちょっとでも爪が引っかかるくらいの出っ張りがあれば皮膚を剥きまくった。テストの時間、問題を解かなくてはならないとわかっていても指は常にささくれを剥き続け、鉛筆を持つタイミングすらわからなくなるほど剥いていた。誰かの気を引きたくて行っていた小さな習慣が、気づけば強迫性障害(傷皮膚症)に陥っていたのだ。

そんな日々を送っていた私だが、卒業式手前には、ちょっとやんちゃな男の子に告白されるなんてイベントが発生した。しかし、悲しきかな赤面恐怖症がでてきたこともあり私はその男子を無視するように逃げた。その腹いせで複数人の男の子たちにレイプまがいのことをされた。なんとも運が悪い人生である。ちょうど「14才の母」というドラマが放送されていた頃だということもあり、知識の浅い小学生が性に強い興味を持ってしまった時期だったのだろう。そうして私の赤面恐怖症はさらに悪化の道をたどるのであった。

さて、小学校時代から話は私の高校時代へと移り変わる。なんと私の腹痛は小学校高学年から高校まで続いていたのだ。

高校時代には電車に乗るのも躊躇うほどだった。急激な腹痛は下痢を伴って襲ってくる。高校へは電車通学だったが快速急行や通勤快速などといった駅区間が長い電車への乗車はもってのほか。各駅停車の電車でも人身事故や点検などで電車が止まれば腹痛が襲ってくるのではないかという恐怖で冷や汗と動悸が止まらず、呼吸が浅くなる。貧血になったかのように意識が遠のいて視界が狭まっていく。

次第に「すぐにトイレに行けない環境下」において同様の症状が出ることに気がついた。タクシーやバス、ドライブ、映画館に授業中、はたまたお葬式やテーマパークの並んでいる時などだ。長時間歩く時も常にトイレの位置を確認して過ごしていたので都内のトイレの場所は比較的多くインプットされている。

実はこの症状こそが広場恐怖(パニック障害)だったのである。私はだいぶ軽度な方だがこれでもQOLは著しく低下し、普通の生活も送れない自分に嫌気がさし、自殺未遂も経験した。後で知ったことだが、厚生労働省の調べによると、ここ数年の自殺の原因でも「健康問題」は常に上位に食い込んでいるらしい。軽度でもこの不自由さであれば、重度の問題を抱える人たちの苦悩は計り知れない。ちなみに、「腹痛が襲ってくるのではないか」という恐怖心から広場恐怖(パニック障害)になっていたが、そもそもの腹痛の原因は過敏性腸症候群と虚血性大腸炎だった。もし、QOLを脅かすなんらかの不調を抱えている人は、恐怖心からくる障害までもセットになったら笑い事ではなくなるので、「恐怖」になる前にそもそもの不調を解決することをオススメする。

そして最後にうつ病だ。これは社会人になってから発症した一番最近のものである。話は実に単純で、ブラック企業に入社したことが原因になる。

広告業界の中でも下請けに近しい位置に属する業種だった。もともと広告業界にキラキラした印象はなく、泥臭い仕事であることは承知していた。残業が多くても大学で芸術学部を出ていた私は制作で寝ずに対処することもあったし、まあ大丈夫だろうと思っていた。大学時代は若さというエネルギーで乗り越えられていたということも知らない安易な考えである。

最初は営業部の配属だった。社内でも厳しいと噂のグループに配属され、入社2ヶ月目から残業時間は100時間を優に超えた。社内での売り上げもトップのそのチームは必然的に案件数も多く、人数も最も多いチームだ。1年生が私含め2名しかいなかったこともあって、業務はもちろんのこと雑務(掃除や上司の飲み会のお店予約やタクシー手配、上司同士の打ち合わせのスケジュール設定など)で一日が秒速で過ぎていった。同じチームだった同期は早々にこのチームから抜けていった。さらに私の教育係となった上司は女性が苦手らしく、コミュニケーションは隣に座っていても全てチャット。一日会話することがないなんでザラだった。もちろん赤面恐怖症が多少緩和していた私だがやはり男性は苦手なので話しかけるのも一苦労である。

まだベンチャー気のあるその会社はとにかく仕事を選ぶことをしなかった。3日後のイベントだって、深夜に振り出された翌日朝出しの資料だって、金曜の夜に渡された月曜朝出しの資料だって、全て対応した。できない理由を考えずに「はい、やります」と答えることが暗黙の了解であった。

そんなこんなで業務量は日に日に増えていく。しかし、おかげでスタープレイヤー達の元で最速最短で仕事を覚えることができたのはありがたい話である。ただとにかく寝られない。3時間の睡眠時間が確保できる日は珍しいほど、2時間でも寝られればありがたいと感じられるほどの睡眠時間だった。とはいえ売り上げには貢献できていたし、お客さんからの評価もいただいていた達成感でなんとか走り続けていた。

しかし、ある時なぜか深夜のオフィスで涙が止まらなくなった。

私はあまり人前で泣くタイプではなく、大学時代も例えば辛くて泣くなんてことがなかったのでとにかく驚いた。別に感情的に辛いと感じてもいないし、何かきっかけがあったわけでもないのに、なぜ自分が泣いているのかわからなかった。それからオフィスで予期せぬ涙が流れることが多々あった。しばらくは「やばい!」と感じたらすぐにお手洗いに逃げていたが1年生が目に涙をためて節目がちにお手洗いに走る異常な光景にもちろん先輩達はざわついた。そこからしばらくして私は「泣き虫キャラ」として扱われ始めた。実に不愉快であった。が、自分が傷つくアクションを最小限に抑えたい私は小学生の時同様、自虐キャラとして過ごした。しかしこの「なぜだか涙がとまらない」状況こそ、うつ病が始まっている身体からのSOSだったのだと思う。

徐々に人への態度が攻撃的になった。そして遅刻が大嫌いだった私が遅刻魔になった。「考える」ということができなくなり(考え始めても思考が途中で迷子になる)、覚えていることもできなくなった(電車に乗ってからどこに行くのかわからなくなったり、なんの会話をしていたのか会話の途中でわからなくなったりした)挙げ句の果てに私は文章が読めなくなった。それも学者が書いた難しいレポートなんかではない。誰でも理解できる簡単な一行が読んでも読んでも頭に入ってこず、理解ができなくなったのだ。文章を読んでも理解できないし、読んでいる最中で前の文章を忘れてしまうといった感じで、全てに時間がかかるようになった。ここら辺でなんとなく「自分はおかしいのかもしれない」と思い始めた。

さらに、駅のホームで並んでいるときに「一歩(線路へ)踏み出せば、会社に行かなくて済む」。道を歩いているときに「前から来た車が私にぶつかって、腕でも折れてくれれば休めるかも」と、常に行動時にどうすれば会社に行かなくて済むかを考え始めた。ここで自分じゃない自分の中にいる誰かが、自分を知らないうちに殺してしまうのではないかという恐怖をおぼえた。休みの日や深夜に携帯が鳴れば過呼吸になるようになったし、常に頭が重く、ただただ「消えたい、終わらせたい」と思う自分がいた。そこまで追い詰められてもなぜだか「会社を辞める」という判断はできなかったのは今でも不思議だ。

とにかく「なんだかおかしい自分」が辛くて、病院に行った。頭に脳波を図るような機械を取り付けられ、連想ゲームみたいなことをさせられた。結果は見事にうつ病。しかし「うつ病」という認識がなかった私は「なんだかおかしい自分」に「うつ病」という病名がついてとても安心したのを覚えている。

そんなこんなで今現在までこれら全ての外的要因による「病気」と共存している。

こういった精神系の病気は「完治」というのは難しい。治ったと思っても「また同じ感情や症状が沸き起こるかもしれない」という恐怖が常に付き纏う。だから私はこれからも、病気と共存していくのである。

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父親のことを散々に書いたが、今思えば、父親は若くして親になったので、とにかく無我夢中で手探りながら「ちゃんとした子」に育てあげようとしてくれたのだと思う。子は親を選べないというが、親も自分が理想とする子を選べないのは事実だ。私は「父が求める子」ではなかったのだと思う。

全体的に不幸自慢みたいになってしまったが、もし今同じ症状を抱える人がこれを読んで、自分の病気に気付いたり、少しでも気持ちが楽になってくれたら嬉しい。はたまた自分が外的要因の加害者になっていることに気づいてくれても嬉しい。

長文乱文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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