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偽善とは。父からの母への言葉が忘れられない。
伊坂幸太郎の『火星に住むつもりかい?』を読んだ。
とても面白かった。伊坂幸太郎の著書は起承転結の転が5,6回あると個人的に思う。「えっ!」という私の声に母が「何!どうした!」と何度も応えてきたレベルだ。ごめんね。
余談だが、私が伊坂幸太郎の本に惚れたのは高校生の時だ。図書館に所蔵された本を読み切れば、リクエストを出して彼の本を買ってもらっていた。リクエスト通りに購入してもらえた率は100%だった。もはや高校の図書館は私のものだった。
一階の端に位置している狭い図書館は常にガランとしており、少ない利用者も静かな生徒ばかりだった。(冬になれば受験生が勉強をしにきていたが、私が通っていた高校は放課後の教室が勉強部屋となり、クラスの半数がそこで勉強をしていたため利用者は少ないままだった。)
そんなわけで、おしゃべり大好き人間の私は司書さんと仲良くなった。バレンタインにチョコレートをあげるほどに。翌日にお返しをクラスにまで届けてくれた時のクラスのざわつきは忘れられない。もらったクルミッ子をクラスメイトに見せつけていたことも忘れられない。恥ずかしい。
話が逸れてしまったので、ここで本題に戻りたい。『火星に住むつもりかい?』を読みながら考えたことは、偽善についてだ。昔から偽善という言葉に引っかかっていた。何が偽善なのかが分からなかった。だから、今辞書で調べてみた。
偽善 うわべをいかにも善人らしく見せかけること。また、そういう行為。「偽善に満ちた社会」⇔偽悪。
意味は分かる。分かるけれど、「偽善」「偽善者」という声の割に「うわべをいかにも善人らしく見せかけていること」や「うわべをいかにも善人らしく見せかけている人」を見かけない気がする。日常的に使われている「偽善」という言葉に対して、果たしてこれは偽善だろうか?と考える機会は多い。私はみんなが使う「偽善」が依然分からない気がする。
「偽善」に疑問を抱くようになったきっかけは、父の一言だ。母は毎年24時間テレビの視聴している。24時間テレビが嫌いな父は母を偽善者だと言った。小学生の私は意味が分からなかった。「偽善」の意味もその時は分からなかったが、蔑み傷つける言葉であることは分かった。
障害や災害にフォーカスされたテレビを視聴して涙を流すことの、どこが偽善なのだろうか。テレビを見て可哀想だと感想を持つことや、学びを得るだけではなく、彼らのために何か行動を起こさなければ、蔑み傷つける言葉を投げつけられるのだろうか。
『火星に住むつもりかい?』では、宝くじを当てて借金を抱える友人を助けたことにより、近隣の人や遠縁の親戚から金を貸して欲しいと言い寄られる人物がいた。彼から金を借りれなかった人に「偽善者」と指を刺され続けたた結果、自殺をした。ここでふと父の一言を思い出し、偽善について考え始めたのだ。
私は高校生の時に、児童養護施設にぬいぐるみをあげようとしたことがある。捨てるのも勿体無いし、遊んでもらえたらぬいぐるみも嬉しいだろうなと思ったからだ。(急にメルヘン要素。 高校時代はトイストーリーloveだったから、明らか影響受けてる。)ぬいぐるみを洗い、届けに行ける範囲にある児童養護施設を調べ、電話を掛けた。結局断られてしまい、実行はできなかった。
私は「1種類ずつのぬいぐるみなんて喧嘩の元になる。」「全ての子どもや全ての施設にあげるのではないのだからすべきでない。」という意見を論破できるわけではない。児童養護施設にぬいぐるみをあげようとした私も、偽善者と指を刺されるのだろうか。
そんな私のもやもやを晴らしてくれたのもまた『火星に住むつもりかい?』だった。
作中には、ペットボトルを集めてリサイクルに励む近所のおばさんに対して、「ペットボトルはリサイクルする際に燃料を使うため、むしろ地球に悪い。偽善だ。」と考える人がいた。そしてその息子は「たとえ地球に悪影響を全く与えないリサイクル法が確立されたとして、おばさんはせっせと収集に励むが親は何もしないだろう。」と言っていた。
そして思った。「偽善」「偽善者」と言葉は行動を起こしている人間に対して、同じ事実を知りながらも行動を起こさない人間が掛ける言葉なのではないだろうか。いわば、行動を起こさなかった自分を正当化するために人を陥れる言葉だ。
実際に辞書通り、うわべをいかにも善人らしく見せかけることや人はいると思うし、それを「偽善」「偽善者」と形容することもあると思う。ただ、善行に対して何もしていない人から「偽善だ。」と言われた場合、当人は何も気にしなくて良いのだと思う。なぜなら同じ事実を知っても行動を起こさなかった人間からの言葉なのだから。
母への父の言葉も、やはり震災や障害者の存在を父も母も知っており、映像を見ることで彼らの生き様や被害、忘れてはならないことを胸に刻み、学びを得た母(行動を起こす人)に対して、援助をしようとも知ろうともしない父(同じ事実を知理ながらも行動を起こさない人間)が嫌味のように投げかけたものだった。もしかしたら、父は母を妬んでいたのかもしれない。
私は生活の中で「偽善」という言葉に対して疑問やもやもやを抱いていたが、今後はスルーできるだろう。今年の24時間テレビが始まる前に、この文を再度読み直そうと思う。
伊坂幸太郎先生ビッグラブ。
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