命たち
同人誌Amazon
1982年7月号(227号)より
1982年3月25日木曜日誕生
ちょうど正午ごろだった。
入院している妻の病院から電話があって、11時5分に、元気な女の赤ちゃんがお生まれになりました、と告げてきた。
私たちにとって四人目の新しい命の誕生である。
私は昨日からの、張り詰めていた精神の緊張が、心地よく和んでいく快感を味わいながら、電話の女の声に礼を言い、
面会時間の三時過ぎにそちらへ伺わせていただきます、と言って再び礼を言った。
昨日、妻は病院へ行ってくる、と言って朝のうちに出かけて行った。
出産予定日が二週間も伸びてしまっているため、検査を受けなければならない、と言うのだ。
家の中はほったらかしのままである。
私は洗濯機を回しながら、掃除機を部屋の隅々に滑らせ始めた。
電話のベルが鳴った。病院へ行った妻からである。
このまま入院して出産と言うことになるらしいので、揃えてある入院用具一式を、病院まで持ってきて欲しい、と言う。
来るべきものが来た、と私は足の先から頭のてっぺんまでの、全神経を緊張させた。
それと言うのも、今度の新しい命を迎え入れるために、
それに関わる一切合切のすべてを、私は自分一人の生命(ちから)で受け止めてやる、とずっと以前から覚悟を決めていたからである。
親や兄姉や他人に頼らない、自分だけの力である。
早速私は、工場へ電話を入れ、女房が出産するため、この月いっぱい仕事を休ませて欲しい、と連絡し、三人の子供たちのために昼食の用意を整えた。
だけど、小学校一年生の大三郎が、学校からまだ帰ってこない。
今日は終業式なのに正午を過ぎても帰ってこない。
昨日終園式を済ませた幼稚園の隆次郎と、三歳になる公美代をテーブルに向かわせたまま、
私は家の扉を出たり入ったりしながら、団地の五階の廊下から階下を眺め渡し、ダイが帰ってくるのを待ちわびた。
今か今かと待ちわび続けながら、私は妻が、ある日、突然、といった形で急にいなくなってしまった家の中で、たとえ一年生ではあっても、長男である息子を頼りにしようとする自分の心を知って、少し驚いていた。
これは親の心理のひとつなのかもしれない。
初めての精神の経験だった。
もしこの私に何かがあったとき、多分妻も、長男を頼りにしようとする気持ちを働かせるに違いない。
そして頼りにされた長男は、それを弟妹につなぎ渡し、信頼の輪を大きく広げていくに違いない。
遅くなってしまった昼食を終えると、私は三人の子供たちに、母親が入院したことを知らせ、
新しい命が、今日か、明日にも誕生することを説明してから、
ダイに、これから病院へ行ってくるから、君は責任を持って、弟と妹の面倒を見ながら、しっかりと留守番をしているように、と言いつけた。
はいわかりました、と大はいつになく、大人びた口調できっぱりと言い切った。
病院へ行くと、妻は陣痛室に寝ていた。
もはや手術服に着替えさせられている。
左手の後から、点滴の注射針を突き刺されている。
そばに置かれた2つの計測器が、胎児の心音と陣痛の状態を、つまり分娩に対し、定期的に反復して起こる子宮の収縮の状態等、秒刻みで忙しくチャート紙に記録していた。
見ていると、なんだか妻とは全く別な意思を持った生き物が、目の前でうごめいているようだ。
今日1日、この、人工陣痛のための適性検査を受け、そのデータをもとに明朝からいよいよ人工陣痛を起こし始め、出産へと運んでいくのだと言う。
「いよいよやなぁ」
私は持ってきた入院と出産のための用具類をベッドのそばに置いてから
「家の事や子供たちの事は心配せんでいいから、安心してくれ」
と妻の心を落ち着かせるように優しく言った。
妻は私と同じ年齢で今年で38歳になる。
この年齢で、陣痛室に寝かされている姿は、なんとなく不釣り合いな感じがする。
痛々しいと言う気がしてくるのだ。髪に白いものが見える。
「……案ずるより産むがやすしや」
私は独り言のように言って妻を勇気づけた。
彼女は得心顔で深いため息を何度もはき、
「あんたの希望通り、女の子だったらいいのにね」
と言ってから
「ここまで来たら、もう頑張るしかないわ」
と笑ったのだった。
午後3時過ぎ、出産した妻を見舞いに、私はダイとリュウとクミを連れて病院へ行った。
この病院は11階建ての大学病院である。
産婦人科は、6階だった。エレベーターに乗って妻の病室へ向かいながら、私は一昨年の11月から12月へかけての、
1月半をこの病院の11階にある陣内科で、入院生活を送った日々のことを、遠い昔をさかのぼっていくように思い浮かべていた。
あの時私は強烈な風邪に襲われ、それが元で腎臓炎を引き起こしてしまい、
45日間と言う生まれてはじめての長い入院生活を経験させられたのだった。
過労が原因だった。
鹿児島の中学を卒業して、製鉄所で三交代で働き始めて21年目だった。
それまでの私は無我夢中で働き、一生懸命に子供たちを育ててきた。
生活に対しては、ある程度満足しても、自分に対しては決して満足せず、だからこそ、妻に対しても、人間として厳しく生きることを強いてきた。
苦労を少しも苦労とは思わず、自分から力ずくで向かっていったのだった。
私の人生で今日と言う日は二度と来ない。
私という一人の人間は決して二度と生まれてくることはできない。
だから厳しく一生懸命に生きる。
これが私の思想の一つだった。
だけど、ついに、ある日、突然、倒れてしまったのだった。
だが、入院生活の経験は私に良い結果をもたらした。
病院のベッドに倒れ込むまでの私は、自分がこの社会を生きている人間であり、労働者であり、三人の子供たちの父親であり、
そしてさらには、それらの全てを総合したところから、物を書いていく作家である、と言うことにあまりにも意識的になりすぎており、
それ以前に自分が小さい命を持った生き物である、
ということに気がついていなかったのだ。
忘れもしない。
腎生検の手術を受けたときのことを。
あの時私は、自分の生命をこの目ではっきりと見たのだった。手術台の上に私はうつぶせに寝ている。
右手の甲には造影剤の点滴の注射針が突き刺さってきている。
左腕には血圧計がしがみついている。私は捉えられてしまって、もうすっかり観念し切った小動物のような気持ちだ。
医者は背中から私の腎臓に太い針を突き刺してくる。畳張りのような、先に鍵のついた針を、ぐいっ、ぐいっ、とくる。
それをレントゲンカメラが捉え、目の前の小さなテレビが映し出している。
痛くはない。麻酔が効いているのだから何も感じない。
背後から太い針を突き刺された。
私の腎臓は、それでも一生懸命に動いている。
心臓の働きに合わせて、忙しく収縮運動を繰り返している。
いや、この私の命を守るために、一生懸命に仕事をしてくれている。
そう感じた。
そう感じてしまうと、私はあぁ、と顔をベッドに伏せた。
この時である。
私は自分の命を見たのである。
いや、自分が生き物であることを識ったのである。
大事にしなければならない、と考えた。
自分を大事にできない人間に、どうして他人を大事にすることができよう。
私が入院している間、妻は三人の子供たちを連れて、三日をおかず、見舞いに来たのだった。
六階へ行って、三階の産婦人科の看護婦詰所で聞くと、妻は分娩室からまだ帰ってきていない、と言う。
11時5分に出産し、今は午後4時前である。
5時間近く経っている。おかしい、と私は頭をひねった。
赤ちゃんはとても元気です、と看護婦は言う。
主治医からお話があるそうですから、ロビーで待っていて下さい、と言う。
おかしい、何か予期せぬことがあったな、と直感しながらも、私は看護婦の言葉に従わざるを得なかった。
おかしい何かあったな、と私が直感したのにはそれなりの訳があった。
長男のダイが生まれた時も、弟のリュウの時も、無論クミが生まれた時も、私は出産に立ち会った。
生まれてきたばかりの小さな生命を、三人が三人ともこの目で見てきたのだ。
そしてさらには、出産から30分、いや1時間も待たぬうちに、疲労困憊しきった、それでいて、充足しきった妻の安堵の顔も、そのたびごとに見てきたのだ。
こんなに待たされる事はかつてなかった。
おかしい。
妻の身に何か起こったのではあるまいか。
それも最悪の事態が…… .。
ロビーのソファーに腰掛けて待っていながら、それでもいたたまらなくなって、
立ったり座ったり、あっちへ行ったり、こっちへ戻ったりしてきながら、妻の身の上を私は案じ続けた。
子供たちは至って元気なもので、三人で鬼ごっこをしたりしながら、キャッキャキャッキャと走り回っている。
元気すぎるあまり通りがかりの看護婦たちに、静かにしなさい、ここは病院ですよ、と注意を受けている。
主治医が来た。
まだ若い、医者になって歳月を持たないと言った、おかっぱ頭の学生の匂いの残っている女医だった。
軽く会釈してから私は彼女の言葉に聞く耳を立てた。
人工陣痛のための誘発剤を点滴された妻は、前日のデータに反して、
その効果があまりにも効きすぎ、普通の場合、ある程度の時間がかかって、徐々に出産してくるところを、
あっという間に、それも爆発的に胎児が飛び出してきたのだと言う。
そのために子宮の奥が破れるように避けてしまい、その縫合に時間がかかり、
さらには出血多量のために、輸血をしたりしなければならなかった。
一時は、血圧が80以下にまで下がってしまって、とても危なかった、と言う。
「……で、どうなんです。今は」
奥歯をぐっと噛み締めるような気持ちで、私は言葉に力を込めた。
知らず知らずのうちに両手に握りこぶしをつかんでいた。
「命には、命には別状ないんでしょうね」
「もう大丈夫です。それは、保証します」
医者は言い切った。
- 3月28日 日曜日 命名 -
新しい命に、私たちの四人目の子供に、どんな名をつけてやろう、と私は考え続けていた。
未来性を持った、これからの新しい時代と、新しい世界を生きていくにふさわしい名前がいい。
日本の子、というよりアジアの子、といったイメージを持たせてやりたい。
私はアジアの子なのよ、といった、アジア的な視点から世界を見ることのできる人間になってほしい。
アジアの亜を取り入れることだけは生まれてくる前から決まっていたけれど、
さて、その次にどんな言葉を組み合わせたらいいのか。
夕方6時半ごろだった。
同人誌編集長の御厨さんがお祝いに駆けつけて来てくれた。
子供たちは大はしゃぎだ。
御厨さんは、私たちの家庭では
「貨物列車のおじちゃん」
と言う相性で親しまれている。
尼崎市の水堂の御厨さんの家の前からは、国鉄の線路が見える。子供たちは電車や電気機関車が好きだ。
とりわけ貨物列車は大好きである。息の長いロマンを運んで、ひたすら突っ走っているように見えるからに、違いない。
私はダイもリュウもクミも、水堂へ何度連れて行ったか知れない。
だから、御厨さんは、ごく自然に、貨物列車のおじちゃん、と言うことになってしまったのだった。
すき焼きを囲んで、私たちは丸くなった。
妻が入院し、さらには出産してからと言うもの、私は無我夢中だった。
早朝から深夜まで家事に追い立てられた。
だけど、私は、たとえ一回きりとて、出前を取ったり、インスタント食品などに頼ったりしなかった。
私には労働者であると言う自負と同時に作家、いや芸術家なのだと言う自負が同居している。
だから、掃除や洗濯や食器洗いや買い物などは労働者の自負で片付け、料理や子育て、とりわけしつけは、芸術家の自負でこなしてきた。
いや、そのどちらも自負がうまく働き合ってやり込めてきた、と言うべきかもしれない。
そのせいだ。夜、一度だって私と寝たことのないクミが、妻が入院したその晩から私と一緒に寝た。
それまでは、かたくなまでに寝たがらなかったのだ。
深夜、私が洗濯物をたたんだり、台所の食器類を磨いたりしていると、
とっくに寝かせつけておいたはずなのに、クミのやつ起きてきて、お父さん早く一緒に寝ようよと言って、私の苦労に気を遣ってくる始末だった。
ダイもリュウも、お父さんの料理はおいしい、お母さんのよりおいしい、などと言って私を激励し、こちらがびっくりするような食欲を見せ、言うことをよく聞き分けた。
御厨さんは、我先にといった勢いで、すき焼きに手を伸ばしてくる三人の子供たちに、一人ひとり頭を撫でてやりながら、新しい命の誕生のお祝いをいった。
子供たちは三人が三人とも、赤ちゃんが生まれて嬉しいと言っている。
大事にしてあげると言っている。大きくなったら、どこそこへ遊びに連れて行ってあげる、と言っている。
そうだ。子供は子供同士で育ってあっていく。親は子供を育てることによってより一層子供に育てられる。
これは肉親に限ったことではない。
教育とはそういうものなのだ。私は自分の生い立ちからそのことを知っているのである。
収納庫からとっておきのウィスキーを取り出し、冷蔵庫から氷を取り出すと、グラスを添えて私は御厨さんに差し向けた。
このウイスキーは以前に、同人誌仲間の森岡春代さんが遊びに来たとき、持参してくれた高級品である。
この日のために大事に置いてあったのだ。
おめでとう、と御厨さんが言い、
ありがとうございます、と私が言って、私たちはグラスをぶつけ合った。
おいしい。
とてもおいしい。
五臓六腑がそう言って,舌なめづりしているのがわかる。おいしい、と御厨さんも言う。
ウイスキーはぐんぐん喉へ入っていく。
「……ところで、赤ちゃんの名前、もう考えたの」
と、少し回転の怪しくなってきた舌で御厨さんが聞いてきた。
御厨さんは仕事帰りに職場のお友達といっぱいだけ引っ掛けてきたらしい。
「いや、まだなんです。御厨さんと一緒に考えようと思って待っていたんです」と私。
クミの時もそうだった。二人であれやこれやと思案し、結局、公美代と御厨さんが命名してくれたのだった。
「あ、そう。で、どんながいいかしら、今度は……」
クミの時はこうだった。私の記憶の比較的、底のほうにある理想の女性のイメージは、久美である。
これは「紅孔雀」の女性の主人公の名前だ。
子供の頃、私は北村寿夫作のそのラジオドラマに、ほとんど毎日しがみついていたものである。そこから公美代が生まれたのだ。
「今度は、アジアのという字を使いたいんです。あ、そうや。亜紀ちゃんみたいな名前がいいんだがなぁ……」
亜紀ちゃんていうのは、御厨さんの長女である。
今年二十歳の大学生だ。
アマゾンも今年で二十年を過ぎた。アマゾンの成長を一目見ようと思えば、亜紀ちゃんを見ればいい、と言うことになる。
あきちゃんで思い出したが、私がアマゾンに入った頃、彼女は7歳だったことになる。
その頃、大庄に住んでおられた御厨さんのお家へ、私はちょくちょく酒を飲みに行ったのを覚えている。
その少し前、私たちは結婚したのだった。
結婚式の時、アマゾンを代表して御厨さんと松尾さんが出席してくれたことを覚えている。
松尾さんが得意の英語で得意な喉をふるわせてくれたのも覚えている。
あれから十三年が経ち、今ちょうど、長男の大三郎があの頃のあきちゃんと同じ7歳になっている。
あきちゃんは立派に成長した。最月が経つのは早い。
「同人雑誌アマゾン」も二十年だ。
そういえば、今度生まれてきた私たちの子供は、ちょうどアマゾンの二十年の節目として、二十周年を記念して生まれたことになる。
この子を立派に育てていく事は、私たちにとって。アマゾン二十周年記念事業となる。
だから、スケールの大きな名前をつけておきたい。アジアのアは、アマゾンのアにもつながる。
用意していた紙に、亜細亜の亜を使って、御厨さんはいろんな名を並べた。
漢和辞典も引っ張り出された。名前をつけるのは簡単なようで難しい。
小説の題名だったら、その作品のテーマやモチーフを象徴するような、人の顔で言うならば、第一印象の優れたものにすれば良いのだけど……。
ちょうどそんな時だった。
電話が鳴った。
入院している妻からである。どうしているのかと思ってかけてみたの、と言う。
墜落分娩と言う、あわや命に関わる出産を終えた妻は、産後みるみるうちに健康を回復していった。
死の一歩や、半歩手前まで行ったような人には見えない。
もう、新しい命に、お乳を与えている。
とても賢い、ちゃんとした分別を持っているような子だ、と言う。
とってもやりやすい、と言うのだ。
出産以来、ほとんど毎日私は三人の子供たちを連れて妻を見舞いに行き、新しい命を覗きに行った。
誰が来ているの、とても賑やかそう、と妻が言う。
私は御厨さんがお祝いに駆けつけてきてくれていることを言い、今、二人で、赤ちゃんの名前をつけたところだったと言った。
どんな名前、と妻が聞く。御厨さんと変わろう、と私は言った。
電話に出た御厨さんは、妻にお祝いを言っている。
それから、紙に書いた私たちの四人目の新しい命の名、全世界に向かって宣言するように大きな声で読み上げた。
「亜里子、どうです。
いい名前ではありませんか。
アジアを故郷に世界に羽ばたく。
亜里子、全くいい名前じゃありませんか」
- 4月15日 木曜日 誕生日 -
今私は、故郷の母たちに手紙を書いている。
昨日、母たちから贈り物が届いた。
段ボール箱に、米と黒砂糖と干し大根と、それに亜里子にとネル製の寝間着とバスタオルが入っていた。
今日は私の誕生日である。
妻は亜里子とクミの三人で寝ている。
ダイとリュウは2段ベッドで眠っている。
やがて10時になる。まもなく私は、工場へ行かなくてはならない。夜勤なのだ。
妻は亜里子を抱いて4月3日に退院した。
普通の出産の倍近い入院だった。私たち家族六人は病院からタクシーで我が家へ帰ってきた。
その個人タクシーの運転手は、自分にもやがて孫ができるのだ、と言い、子供四人抱えて大変だろうけど、頑張るように、と私を激励してから、料金はいらない、と言った。
私はとても嬉しくなってきて500円分余分に押し付けた。
妻が入院している間、いろんな人たちがお祝いに来た。
春休みを利用して高校生の娘さんと、東京から里帰りをしていて、妻の出産を知ったと言う沖田弘子さんには驚いた。
彼女はお土産をどっさり持ってきて、多額のお祝いを置いて行き、病院まで一緒に行って、私たち夫婦を心から激励した。
頑張らなければならないと思う。
ありこも、つまも、とてもげんきです、
と私は手紙を書き始めた。
故郷の母たちへの手紙は、全てひらがなでなければならない。さらには一字一字はっきりと書かなければならない。
妻は退院してからも2週間の安静だった。だから、私は、4月に入って、さらに1週間の休暇を取った。
その間、私は妻をただ寝ておくだけにさせて、すべて自分の力でやった。
ダイもリュウもクミもそうしてきたように、亜里子をお風呂に入れてやる仕事が増えた。
だけど、ピカピカに風呂を磨き上げ、亜里子の新しい命を湯の中にたっぷりとつけてやる仕事は、とても楽しい。
およそ半月近く仕事を休んで、もうこれで、妻も亜里子も大丈夫、と言ってくれた。
ほっとした思いで工場へ行った時、課長に呼び出された。私が三月の月を八日間もの欠席したため、減給だ、と言う。
さらには、四月からの新年度は絶対に欠勤しません、と言う誓約書をかけ、と言う。
減給に、はいはい覚悟の上です、好きなようにしてください、と私は言った。
15歳からこの工場で働き始めて今年で23年目だ。
減給すると言う相手が、大学のキャンパスをあてもなく、うろうろしていた頃、私は汗と油に汚れ、昼に夜に徹夜にと、三交代で鉄を作っていたのだ。
こちらにはこちらなりの自負がある。
だが、それを相手に見せてはならない。誓約書をかけ、と言う。
はいはい、私はものを書くのは得意だから、何枚でも書きます、と言った。
俺は作家だから、と言いかけて、思わず首をつかんだ。
工場へ行くようになってからも、私は家事のすべてを自分1人の力でやってのけた。
眠る時間も惜しい位だった。
疲労困憊しきって目の前が霞んで見えた。
でも私は自分に向かって歯を向いた。
よくも発狂しないものだと、自分のことを他人のように思った。
私には2人の父と3人の母がいる。
本当の父親は知らない。戦死させられたのだと決め込んでいる。もう1人の父は祖父である。
太平洋戦争の最中に、両親が離別したために、宙に浮いてしまった私を、祖父は自分の子として15歳まで育て上げ、私が20歳の時に亡くなった。
3人の母のうち1人は私を産んでくれた母で、もう1人はその後5歳ごろまで私を育ってくれた母だ。
それに今1人は、私を戸籍に入れてくれた母、つまり祖母である。
その3人の母たちからの贈り物のお礼の手紙を、今私は書いている。
ありこをりっぱにそだてあげてみせます。
そして、らいねんのなつやすみにはつれてかえります。
そのころ、ありこはひとりあるきできるようになっていて、鹿児島の土を、というより、アジアの土をしっかりふみしめていることでしょう。
たのしみにまっていてください。
かあさんたちが、このわたしをそだててくれ、いままでそだてていてくれるように、
わたしはこどもたちをりっぱにそだててゆきます。
それがおやこうこうだとおもっていおもっています。
ありこもダイもリュウもクミも、なんせ、みんなアジアの子なのですから。
同人誌Amazon
1982年7月号(227号)より
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