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心の病、病名にとらわれることのあやうさ

自分の生きづらさが当たり前のものじゃないと気付いてから、自分が何者かについて、常に考えています。

その過程で、病名そのものにとらわれる危うさと、病気の本質に気が付いたので、覚書として記しておきます。

前半は私がどう心の病と向き合ってきたか、後半は向き合う過程で気づいたことを書いています。お好きなところからお読みください。

私と心の病のこれまで

私は中学に入る頃、精神科に通い始めました。

自分から親に「私は異常だから精神科に通わせてほしい」とお願いしました。親からしたら、「娘の頭がおかしくなった」と思われたかもしれません。実際父親からはそう言われました。

記憶が曖昧ですけど、毎日泣きながらお願いしていた気がします。なかなか行かせてもらえなくって。まあ、自分の子供の頭がアレだなんて、認めたくないですよね普通。世間体を気にする職業でもありましたし。ちなみに不登校の子供の親に多い職業の一つです。

親は心配をするフリをして、自分たちの世間体の心配を心配しているのが如実にわかりました。それで余計悲しくなった気がします。

当時は、今よりもずっと精神疾患に対する偏見が強かった時代ですし、思春期の精神疾患や心の不調、不登校に関しても保護者や教師からの偏見も多く、また、今ほど発達や愛着の問題の認知は広まっていなかったように思います。

そして、うちの親や家族のイメージは、精神科といえば「周りが見て明らかにやばい人が、周りに引き連れられていく場所」といった感じでした。自分の娘がそんなところに通っているっていうのはなかなかに受け入れがたい現実だったんじゃないかと思います。

それはさておき、なぜ私が精神科に通いたいと言い出したかと言うと、身も蓋もない言い方をすれば、ネットの影響でした。

私は、すぐなんにでも影響を受け、他人の感情を自分の感情と勘違いするほど同調してしまいます。そんな私が当時、個人サイト全盛期だったネットの海を漂流し、いわゆる「メンタル系サイト」というものに出会いました。

メンタル系サイト自体は、病気の人同士で助け合おうという前向きなものから、通院日記がメインだったり、創作の発表の場だったりと様々でした。

しかし自分が中でも惹かれたのは、自分の病名を書いたり、飲んでいる薬をリストアップしたり、リスカ写真が載っているような、闇の深いサイトでした。(うまい言葉が選べなくて申し訳ないのですが、そういうサイトを貶める意図はありません)

そして、そこに掲載されている内容はとても魅力的に写ったんです。

当時、自分が精神疾患にかかっているという自覚はありませんでした。ただ、得も言われぬ生きづらさを感じていて。私自身はただ、人前に出るのが異様に怖くて、教室に入れなくて、情緒不安定な、不登校予備軍の子供でした。

その頃は、この苦しみを理解されたい、愛されたいという渇望で日々息苦しかったので、自分の苦しみの正体を見つけたような気になりました。精神科に通って病名がわかれば、自分のことが理解できる/理解してもらえる、とも思いました。

(今思えば、自分の人生は、理解されたい→それっぽい答えを見つける→しっくりこない→またさまようの繰り返しな気がします)
(あと今だからこそ客観的に書いてますが実際はもっとぐちゃぐちゃ混乱していました)

そして、愛されたいという思いがこじれにこじれた結果ですが、「ここに書いている人たちのようになれば、私も可哀想と思ってもらえる」という打算も確実にありました。

有り体に言えば、かまってもらいたかったんでしょうね。生きていくためには愛が必要で、その愛を誰から獲得していいかもわからないから、ただただ必死でした。

加えて当時の私には嘘をつくと言うか、盛る癖がありました。ちやほやされたい一心で、でも、ちやほやされるためにかわいこぶるほど自分に自信もなかったので、自分はあえて不幸で可哀想だという方向に自分を盛るという、歪んだ盛り方でした。(というか、愛されていないという現実を受け止めるために自分は不幸だと思い込むしかなかった)

当然ながら、逆効果ですよ。そんなことしたって人は離れていきます。

だって、普通の人はリスカ跡なんて見たくないですもん。おまけに善意で心配してもそれが徒労に終わる、自分が悲劇のヒロインだと思って酔ってる女には、近寄りたくないだろうと。

むしろそんなやつに近寄ってくる人はまともじゃないことのほうが多いので、決別するか共倒れするかのどっちかで、トラブルの多い人間関係が多く、心は閉じていくばかりでした。

診断名の多さがステータスに

で、自分でもメンタル系サイト作りました。しかもいっぱい。何個もスクラップアンドビルド。

そして、病名を盛りました。実際に診断された病名に加えて、自分に当てはまりそうな症状のものを2,3個。特に「障害」と入ってるようなより重そうなものを選んで。

今思うとその病気で苦しんでる人に本当に失礼極まるクソガキなんですけど、批判されることを承知で言えば、その当時私の中では、「病名がたくさんある」ことがステータスになっていました。

ステータスといえばリスカもそうでした。リスカの行動原理は色々ありますけど、当時認識していた私の動機は「ダメな自分が許せないから罰する」だったと思います。

それも最初は小さなひっかき傷程度だったのに、ネットで自分よりひどい傷跡をたくさんつけている人を見ると「私ももっと血をたくさん出さなきゃ」って。で、最終的には肘の近くまで毎晩血みどろになるまで切り刻みました。相当ヤバいやつですよね。

でも、承認欲求とかそういうものって怖くて。エスカレートしていくんですよね。おまけに過剰同調も相まって、人と他人の区別もついていないから、人が苦しくてリスカした日記を読むと、同じくらい激しく切り刻んだり。

そうすると、周りは「跡が残るよ」「病気になるよ」「親が悲しむよ」「痛そう」と心配してきます。でも、自分のことがどうでもいいと思ってるやつに病気になるよとか言っても、ピンとこない。心配されたいのにいざ心配されると相手が理解できなくて怖くて拒絶してしまう。

リスカもODも虚言癖も、今になって思えば結局認められたい、愛されたいの裏返しってだけなんですけど。

そんなこんなで非常に沢山、色んな人に迷惑もかけたし、恨みも買ったと思います。逆に、同じくらい色んな人に助けられました。当時懲りずにこんな私に付き合ってくれた色んな人には感謝してもしきれない。あなた方の善意で今私はなんとか生きています。伝わらないだろうけど書いておく。(っていうか嫌われてるかもしれないと思うと怖くて連絡できない)

しかし実際のところ、診断された病名はそんなに多くなかったです。

当時の主治医は思春期治療の専門ではありませんでしたが、カウンセリングも併用してくれましたし、思春期の私を気遣ってか、積極的に診断名を増やす人ではありませんでした。今になって思えば、不器用ながらも真摯に向き合ってくれる、良心的な先生だったと思います。

しかし私は検索魔でしたから、病名を色々調べて先生に「私この病気かもしれない」なんて言ったりして怒られてました。「本当にその診断を受ける人は、そんな生ぬるい症状じゃない」って。

しかし、本当に病名が欲しかったら、検索して出てきた症状やその人の書いた文章を研究して、先生の前で演じて、診断名を得ることも可能だったんです。

ただ、虚言癖があると言いつつ、それに死ぬほど後ろめたさを感じていて、最終的にどこまでも正直だった私は、それだけはできませんでした。

私は、自分の正体を知って安心したかっただけでした。自分の正体がわかれば、どうして私がダメなのかわかる。どうして愛されないかがわかる。だから病名がほしかった。型に当てはめて、私がダメなのは病気のせい、親から愛されないのは病気のせいだと、安心したかったんです。

「生きる苦しさ」を病のせいにしていた

もちろん、実際にその症状がなかったわけじゃないです。睡眠障害や摂食障害も一通りありましたし。一時期本当にひどい鬱状態や健忘、解離を経験したこともありました。

ただしどれも、診断すると至るほど長期ではなかったり、外から見ればいまいち当てはまらない状態だったんだと思います。

余談ですが、私の全ての症状を見ている旦那には最近になって「ひどい症状はあるけど、それを隠すのが異様に上手い」と言われました。

しかし当時の私は「病気だから、苦しいんだ」と思い込んでいました。何なら、学校や家に居場所がなかった私は、心の病であることを、拠り所にもしていました。

病名に囚われて、自分にとって何が原因でここまで辛いのか、そこからは目を背けていました。

実際、精神疾患の治療はぬるま湯みたいなもので、ずっと浸かっていると(長期化すると)だんだん感覚が麻痺してきます。

同じ病同士の友達を作ろうものならその度合は増します。わかり合える相手ができますから、いっそ病気のままのほうが楽とさえ思うこともありました。でも、そういう相手との関係は長続きしません。いずれ破綻します。

おまけに、私は病気だから、社会に適応できない。学校に行けない。仕方のないことなんだ。と周りに理解を求め、理解を強要し、理解してくれない相手を攻撃しました。さらには私の病はもはや体質のせいで、もうどうしようもない、一生苦しい思いをし続けるしかないと諦めていました。

今思えば、「精神疾患持ち」という状況に依存していたのかもしれません。

精神科に通うのをやめてわかったこと

しかし、実は一度、精神科に通うのをやめていた時期がありました。

薬もかなり減り、寛解と言える状態にまで行き、自然と足が遠のいていったんです。上記の諦めていた時期ですね。ここまでくると、薬を飲もうが飲むまいが、体調にそこまで変化はありませんでした。

その頃は寛解したと信じ込んでいたのですが、上京をきっかけに再発し、精神状態が中学生の頃とほぼ同じ反応を示したことで、薬物治療や精神疾患における病名にとらわれることに疑問を抱くきっかけになりました。

実際のところ、薬物療法だけでは、根本的な治療は難しいと思います。本気で治そうと思うと自分に向き合う必要が出てきます。だって、心の病なのだから、心が治ることを諦めていては治るべくもないですよね。

ただ、快方に向かうエネルギーが足りなくなるのも心の病のせいなので、エネルギーを得られるまでに症状を緩和するには、薬は効果的です。治療するのは自分自身で、薬も使い所ということだと思います。

しかし私は薬物治療への疑問と、それに加えて、どの病名にしっくり来ていなかったのもあり、病院に行くのをやめてしまいました。(この頃は完全に精神科医不信でした)

ちなみに、私が診断された病名は、中学〜社会人までで強迫神経症→双極性障害→(寛解)→気分障害。上京して会社で調子を崩したときは、通勤電車での発症ということもありパニック障害の診断を受けました。

しかし、私自身は大鬱と呼ばれる重度の鬱状態になったことはあっても鬱ばかりではなかったし、躁うつ病と言うには、躁状態のときの行動が理性的な場合のほうが多かった。近しい症状はあれど、当てはまる病名が少なく、主治医も病名をつけあぐねていたのかもしれません。

ちなみに、パニック障害に至っては誤診だと思っています。

だから、私は疑問を持ちました。病名の特定や、薬物での対症療法に意味はあるのかと。「生きづらさの原因は心の病そのものではない」と考えはじめることができたんです。

病名がついても、良いところは損なわれない

病名というものは、あくまで表面的なものです。
病名そのものは悪ではありません。

名前は研究においては必要なものですし、当事者の視点で言えば、休職する場合などに公的な診断書が必要な場合や、適切な治療を受けるための共通の指標として、情報収集などに役立ちます。

適切な診断であれば、治療が進み、精神の安定を得ることもできます。
発達障害など先天的なものであれば、自身が何者であるかを知るきっかけになり、環境が整うなど、病名に救われるという側面も勿論あると思います。

しかし、何もかも病気のせいだと思い込み、問題の根本から目を背けて思考停止してしまうことや、自分や他者が「病気になったから人としてダメになった」などと考えてしまうことは、とても危ういと思います。

自己解決のために心理学や脳科学に「頼ってはいけない」という話ではなく、「それが自分のすべてだ」と思い込むことにリスクがあります。

まるで病気を何かの咎のように背負ってしまっては、あらゆる可能性を閉ざしてしまいます。

病にかかったからとて、私は私のままで、あなたはあなたのまま。

良いところは損なわれないんです。

悪いとしたら、あなたではなく、そこにとらわれる生き方のクセや思い込みが悪さをしている。

たとえば、神経質で敏感なせいで、心が疲れてうつ病になったとしたら、神経質や敏感さは悪なのかといえば、それは違います。神経質さは、言い換えれば繊細さで、細やかな気配りや丁寧な仕事に繋がりますし、敏感な気質はいいことを多分に感じ取れるという側面も含んでいます。

苦しくても最終的に笑える方へ

心にせよ身体にせよ、表に現れる不調っていうものは、きっとそれぞれ複雑につながっているものだと思います。

だから、単一の表面的な症状を分類しただけの「病名」が、私の、あるいはあなたの全てなどでは決してないです。

もし今漠然とした生きづらさを抱えていたり、原因不明の身体の不調に悩まされていて、そこから抜け出したいと思ったとき、もし可能ならば、病名やレッテルに惑わされず、自分に気持ちを向けて見て欲しいです。

自分が楽だなあとか、調子がいいなあって時がいつかとか。自分が気持ち良いこと、楽しいこと、そういうことをもっと感じてみて欲しいと思います。

私もつい「自分が何者なのか?」と分析ばかりしてしまうのでまだまだうまくできませんが、少しずつ向き合っています。

抜け出したくないと思うのならそれも有りだと思います。
まずはその気持を感じてみて欲しい。否定する必要はないです。

そうすると不思議と、心の方から変わってくると思うから。

そしてもし勇気が出たら向き合ってください。

ただ、向き合おうとすると、辛いことを逆に自覚してすっごい辛くなるかもしれないし、何度もつらい思いを繰り返すかもしれないけど、その後、きっと楽になれるときが来るから。

私もまだ全然途中で、行き先なんて見えないけど、それでもふと、5合目あたりで下を見下ろすとか、そんな感じのときが来るから。

だから、病名に自分を押し込めて、あえて不幸だったり可哀想だと思ったりするのすごくはもったいないことなんだよ。

生きづらい人が、病名やレッテルに惑わされず、上手く利用することで、少しでも楽になっていけるよう祈っています。

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