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なぜ人は、きれいな風景を見ると感動してしまうんだろう(後編)

なぜ風景は人を感動させるのでしょうか?じつは、人の営みが途切れることなく、無事に続いてきたからこそ、人はその風景に感動するし、風景は美しくあり続けることができるのだと言います。

前回のインタビューでは「人と風景はシンクロする」「山を見ていると山の気持ちになる?!」などなど、風景に感動する理由をお聞きしました。


今回も引き続き、滋賀県立大学 地域共生センター講師で風土に根ざした暮らしと文化を研究する上田洋平先生にご登場いただき、お話を伺います。聞き手は私、果てのメディア編集長の亀口がつとめます。

では、後編をどうぞ!

ここで、ともに、無事に生きる

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上田:金持ちにならなくても、にぎやかな暮らしでなくても、とにかくまずは無事に、今日と変わらず明日が来てほしい。そうやって生き延びていく。
それが共同体とか、家族とかの目的だと思うんです。

亀口:変わらず明日も続きますように、と願いながら。

上田:そういう意味では我々が生活するということは、常に「無事」を探究すること、ある意味「無事」への戦いかもしれませんね。

亀口:なるほど。

上田:昔の人は「無事」を守るために、隣の田んぼと水の取り合いをして暮らしていたわけです(笑)。

亀口:水の取り合いですか!

上田:朝は「おはよう!」とか言ってにっこり笑ってすれ違いながら、夜は水の取り合いをしてる。隣に水を取られないか隠れて見てるわけですよ。取られてもそこで言うんじゃなくて、相手が帰ってからまたもとに戻すとか(笑)

亀口:いやらしいですね〜(笑)

上田:したたかさというか。仲良くしましょうね、ではないんですよ。水の取り合いをするんです。水が社会をつくりますからね。王様だって、水源地を治めたところに生まれるでしょう。

亀口:「水を制するものは国を制する」とも言いますもんね。

上田:川の左岸と右岸では必ずケンカをするわけです。左岸と右岸の村で。でも、いざ村の中に水が入ってくると、今度は村人の間で、人と人で水を取り合う。こういう構造です。農村社会は田んぼの社会、田んぼの社会は水社会です。助け合いと、いさかいが矛盾的に合一しているというか。

 亀口:それはずっと無くならないんですね。

「住む」は「澄む」なり

上田:そう、無くならない。にっこり笑って、取り合いもする。でもそれをケンカで終わらせない知恵があるわけ。そういう深さがあって、これを私は「ブジネスモデル」と言っています。

亀口:ブジネスモデル?

上田:いさかいなどをしながらも、折り合いをつけていく。そういう文化もちゃんとあるんですよね。きのう今日のことだけを考えているのではないということ。

亀口:そんな短絡的なことではないと。

上田:「今すぐ私に見返りを」じゃなく、「ゆっくりみんなにお返しを」という考え方です。先祖が世話になったかもしれない、子孫が世話になるかもしれない、と考えると、今日のことだけでケンカしてたらダメだよね、と。

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(↑「総論近江の暮らしと文化」上田洋平資料より)

上田:ずっと住み続けているということは、ここでの人間関係もずっと続いていくということ。ちょっとのことでケンカをするのはやめておこう、
という考え方があるのかもしれませんね。滋賀県なんて縄文時代から今も変わらず人が住んでいるので、そう思うと、滋賀県の心というのはそこにあるのかもしれない。

亀口:あぁ、なるほど。

上田:例えば「住む」は「澄む」なりと言っていますが、人が住み続けることで、その空間が澄んでいく。日本語の音が一緒なら、意味もつながっていると思うんです。

亀口:住むことで「澄んでいく」。それが語源だと聞くと、なんだか意識が変わりますね。

上田:普通は人混みから人が消えると、ゴミが残ると思いますよね。
だけど、「ここで、ともに、無事に」生き続けるためには、やっぱり限られた資源からこの人数が食っていけるだけの食料を毎年続けて得ないといけない。そのために、行き過ぎた利用は制御される。

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(↑「総論近江の暮らしと文化」上田洋平資料より)

上田:これ、何に見えます?

亀口:ゴミがたくさんありますね。

上田:そうでしょう?だから我々はゴミ拾いをしますよね。

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(↑「総論近江の暮らしと文化」上田洋平資料より)

上田:でも、これも同じ場所なんですよ。伊勢湾台風の後のね。これ、何をしてるんだと思います?例えば子どもに聞くと「ゴミ拾い」って言います。

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(↑「総論近江の暮らしと文化」上田洋平資料より)

上田:だけどおばあちゃんに聞くと、「焚き物拾い」と言うわけです。焚き物、燃料ですね。ゴミですか?これ。

亀口:なるほど、燃やして使うんですね。

上田:環世界が全然違うでしょう?今の我々の環世界では、これはゴミですよ。でもこの人達の環世界では、山が近くにないから、流れてきた木は大事な焚き物なんです。競争して取りにいかないといけないぐらい。だから、誰かが「きれいにしなさい」と言うことはありません。

 亀口:なるほど、大事な資源だから。

上田:必死にそこで生きていく。そのために、そこら中の資源をちゃんと観察するんです。里山の落ち葉一つ、琵琶湖の木一つ。そこで、ともに、無事に生きていくために、限られた資源を徹底的に使うという暮らしがある。そうやって、誰も「ゴミを拾いなさい」なんて言わない社会をつくっていたんですね。

一生懸命に生きる営みが風景をつくる

上田:今はお金をかけて拾って、捨てているでしょう?だけど、人々が住むことによって、場所はおのずと綺麗になっていくわけ。流れて来る木は変わってないし、台風は今も来るじゃないですか?
 
亀口:はい、そのサイクルは昔も今も同じですね。

上田:でも、我々の暮らしが変わったから、まなざしが変わったわけです。
まなざしが変わったから、かつては宝物だったものがゴミに見える。じゃあゴミだから、拾って捨てましょうというのが今の解決方法だけど、本当の解決は、もう一度我々の暮らしの物語の中に流木をつなげてやることです。

亀口:流木を暮らしにつなげる?

上田:かつては囲炉裏とか、お風呂を沸かすために直接燃やしていたけれど、今だったら都会で薪ストーブを使っている人なら、こういう木が手が出るほど欲しいわけ。じゃあ村の中では手に負えないけれど、都会の人もそこに参加して、薪ストーブという今の技術を組み合わせれば、もう一度みんな競争しながら拾うかもしれない。

亀口:なるほど。

上田:そうすると、これはもうゴミ問題ではなくなるんですね。つながりで解決すると言いましたが、柳田國男という人はこう言っています。

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(↑「総論近江の暮らしと文化」上田洋平資料より)

上田:「村を美しくする計画などというものは有り得ないので、あるいは良い村が自然に美しくなっていくのではないかとも思われる」。

そうでしょう?昔から今も残っている美しい景観の多くが、「きれいにしましょう!」と誰かが絵を描いて計画的につくられたものではないわけです。

亀口:なるほど!計画的ではない、自発的な美しさなんですね。

上田:彼は「良い村」と言っていますが、では良い村とは何か。私なりに考えると、それはその場所でともに、無事に、生きていくために自然と関わりを持ちながら、自然を観察し、あるいは自然から身を守りながら、家族達が一所懸命にそこで生きてきた、その営みです。

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(↑「総論近江の暮らしと文化」上田洋平資料より)

亀口:人の手がそこにあるから美しいんですね。

上田:はい、大自然というよりは、身近で有限な小自然です。よく滋賀の人は「滋賀はなんにもない」って言うでしょう?

亀口:言いますね〜(笑)

上田:そう言うんだけれど「なんにもない」その無事があるんだから。無事を続けてきた文化なんです。自然とつながるシステム、それから人と人とのつながりを保つための知恵とか、守りをしていくと言う考え。

亀口:守りをしていく考え?

上田:はい、家を守りする、田んぼを守りする、先祖から預かって子孫へつないでいくんだという思いがありますよね。

亀口:すべては子孫へ、未来へと目を向けているんですね。

上田:この「何もない」を百年、千年続けてきた無事の文化がある。
だから風景の中に無事が見える。無事の風景が我々に何か訴えてくるというか、安心するというか。

亀口:滋賀の風景を美しいと感じるのは、そこに百年、千年続く「無事の風景」があるからなんですね。それだけじゃなく、それを守り続けてきた「人」の営みも風景の奥に生きている。だから美しい風景は人を感動させるのかもしれませんね。

上田:だから「滋賀には何もない」と言われても、言い返さなくていいんです。

亀口:「何もない」は、豊かさの証ですね!この壮大なスケール感のあるお話を、webやSNSで発信することに意味があるような気がしています。今日はとても興味深いお話をありがとうございました!

取材・文 亀口美穂
写真 鎌田遥香

*このインタビュー内容はローカルメディア「しがトコ」の記事を元に編集・再構成しています。

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