レコード会社勤務_女を使えない自分

レコード会社でアルバイト勤務し始めて、前任のオオツカさんもいなくなって、レーベルの東海北陸地方の宣伝窓口を1人で担当する仕事についても理解し始めて、毎日絶え間なく鳴る電話に凹んでは泣いて、アタフタしていた。

毎週のように多くのダンボールで白盤とサンプルCDが届き、毎日名古屋にあるメディアに足を運び、地方への顔出しも踏まえてプロモーションに行き、月に1〜2回くらいあるキャンペーンを組んで、週末にあるライブにはメディアを呼び込んでアテンドして、、、とアタフタしていた。

私は、プロモーターという仕事をよく調べもせず飛び込んでしまった事に、軽い後悔はしつつも「私以外にも働きたい人達がたくさんいたんだ、そんな職業に就かせてもらっている」と心の中で唱え感謝して、忙しい日々と毎日成長していく自分にワクワクもしていた。

メディアには優しい人の方が多いけれど、わざと冷たくしてくる人もいる。(「宮本から君へ」というドラマを見た事ある人は、主人公が受けていた営業先からの対応を思い出してもらえれば、わかりやすいような気がする。)新人プロモーターの話など聞いてもらえないのが、常だ。何ならまだ21歳のぴよぴよのひよっこだ。とにかく顔を売る事が第一。日々メディアに足を運んで顔を覚えてもらえるように務めた。会社の売りたいアーティストを売る為に、まずその地方の窓口として、自分を売って信頼を得る事に務めた。

プロモーターになってから、2ヶ月ほど経った頃”パワープレイ”というものを獲らなくてはいけなくなった。”パワープレイ”とは、1ヶ月の間にたくさん楽曲をO.Aしてもらえ、その局をあげてプッシュします、というような展開だった。新人アーティストのデビューCDや1stアルバムを出すまでのシングル曲で、”パワープレイ”を獲ってこい!という指示が結構あった。

”パワープレイ”には枠数があったので(どの局も大体2〜3曲)、獲らなくてはいけなくても簡単に獲れるものでもなかった。その枠数を狙うプロモーター同士の対決だった。その局の”パワープレイ”は、局のプロデューサーと、その局に出入りするディレクターの多数決制だった。

私はまだプロモーターになって2ヶ月。策も何もなかった。何が正解で、何をしたら獲れるのかなんて、一切分からなかった。私は、通常のプロモーション業務も含めて、営業を無視されない方法の会得や、何が好みで何が嫌であるかというメディアの人それぞれの特性や、周りの先輩や同じ仕事をしている人達の仕事ぶりを観察した。オオツカさんにもよく電話して、都度アドバイスをもらったりしていた。

そして、男性には男性なりの、そして女性には女性なりのやり方があるらしいという事も気づいてきた。男性なりのやり方というのは、夜のいかがわしい店での接待なども含まれる。それを知った時は、マジかよと思いつつ、女の私にはその戦術が使えない事も悟った。

そして、もちろん全員が全員でないものの、同じエリアや本社にいる周りの女性プロモーターを見ていると、うまーく女である事を使って接待をしつつ、業務をしている人もいる事がわかってきた。

メディアの人は大概がいい年をしたおじさんだった。多少ぼやかすが、女である事を利用して、期待を持たせる手前くらいの愛嬌を持って、懐に入り込んだり情に訴えかけて、票を得る方法だ。別にこの業界だけではなく、色んな業界でもよくある事だろうが、若すぎた私は、少しびっくりしてしまった。

私はその方法について把握はしたものの、自分自身に落とし込めなかった。気づいたのだ、私は愛嬌をうまく使って仕事する事ができない、と。なんなら、酒も体質上一切飲めない。楽しく、ノリで、ができない。自然に出てくる愛嬌でそれができれば良いが、オゾンで多少克服したものの基本男が嫌いなのには変わりなかったから、余計におじさんに愛嬌が使えなかった。やってみようとしたのだ、一応。けど、全くダメだった。ダメすぎて笑った。クラブでも愛嬌がなかったのだから、当たり前なのに一応やってみた所に努力は垣間見える。

それが自分でわかった時、私には楽できる戦略が一個もないではないか、と思い落胆した。そこで落胆している暇もないので、私には方法は1つしかなかった。

もちろん東京の担当者や上司から電話を入れてもらったり、来てもらったりして力を貸してもらうどこのレーベルも取る方法は使った。けれど、自分の戦法としては入社面接で答えた通りの「体力」での勝負だった。そして、根性と忍耐も使って、噛り付いてもぎ取る方法だった。それしかなかった。

とにかく局に通いまくった。呆れられるくらい毎日いた。こいつに票入れなかったら、呪い殺されるんじゃないか、というくらいいた。居過ぎて心配されて、「早く帰りなよ」とお父さん・お母さんみたいに心配してくれる人もいた。家みたいになっちゃって局内のプロデューサーにフランクになり過ぎて、「お前はもう出禁!笑」と言われるくらい居た。それも笑いあえるくらいの間柄になっていた。接待飲みなどは、一切しなかった。飲めもしないし、接待するのがまだ苦手だった。そんな大人の方法で獲られるのは悔しかったし、それに負けたくもなかった。真っ向からの正攻法でいきたい、21歳の意地だった。手を抜く方法を知らなかった。


結果、初めての”パワープレイ”をもらえた。私はとても嬉しかったけど、その期間のプロモーションで疲れすぎて、発表を聞いた瞬間どっと疲れが出て、その時に思いっきり喜べないくらい体力を全て使い切っていた。クラクラした。

ライバルには、10年以上プロモーターをやっている大先輩をはじめ、他にも何社かいた。無理かなぁ、という思いはずっと心の片隅にありながらも頑張っていたので、びっくりもした。後から聞いたのだが、大先輩は結果発表の直前に局から「今回は選んであげられない、どうしても選んであげなきゃいけないやつがいる」と言われていたそうだ。

局の人全員と既に顔見知りになれていたので、後日みんなに感謝を伝えて回った。その時、初めて心からの愛嬌が出た。私の強みは、自分の信念に従った行動を持って、信頼を得る事だと確信した。

それまで悩んでいた自分なりのプロモーションの仕方にも少し方法が見い出せて、大変だったけれど自分にとってとても有意義な期間だった。



ハタノ








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