見出し画像

何のために何をどう変えていくのか?〜ムーブメントをめぐる公平性と全体性〜

世界で干ばつ、日本でも酷暑が、というわけでこの夏は環境問題になんとなく意識が向きやすい。
ところが、最近僕は環境問題などの国際的な諸問題に対する運動の方向性を見て、どこかモヤモヤとしてしまう面もある。
これといった自説や自論はまだないのだが、「こういう視点もあるよな」という感じで自分の中のパースペクティブに少し広がりが出てきて、多分そのせいで心がモヤついているのだろう。

簡単にまとめれば、こんな感じだ。

気候変動や貧困問題など現代世界の諸問題に対しては、超領域的に「人間の豊かな生をフェアに守り続ける」ことを目標にすべきではないか。

僕がこう考えるようになった裏付けになる?ような視点を上げていこうと思う。(論理性はまだそこまでないだろうけれど。)







私たちが罪悪感の中努力していかなければならないのか?


「使わない電気は消そう。シャワーの時間を減らそう。」

例えばこんなふうに、一般庶民が自分達の暮らしを変えていこう、というムーブメントがある。しかし、例えばCO2排出の議論に絞ったとき、こうした運動がどれほど重要だろうか。確かに、多くの人の意識を変えるという点で身近さは重要で、こうした啓蒙活動が更なるムーブメントを促進するだろう。

しかし、世界トップレベルのセレブや実業家たちは、(一部はエコな顔をしていながら)一般人の数百倍、数千倍の環境破壊をしている。


彼ら彼女らのライフスタイルを見れば、それらが環境破壊に大きく貢献してしまっているのも明白だ。建設コストの高い丘の上に豪邸を建て、無駄にプールや芝を張り何部屋も空調を効かせ、そんな豪邸を売り買いしながらヴィンテージのラグジュアリー品やスポーツカーなんかも揃えて。そして何より、プライベートジェットで移動する。

プライベートジェットがどれだけ環境に悪いかは欧米では有名な話のようで、アメリカでは短距離の区間にプライベートジェットを使ったセレブが炎上することもある。

最近話題になったカイリー・ジェンナーはカーダシアン=ジェンナー・クラン(アメリカ最大級のセレブ一家)の1人。この家族には他にもキム、クロエ、ケンダルなどリアリティーショーのスター/スーパーモデルたちがいるが、彼女らのせいでどれだけ環境破壊が進んでいるのだろうかと思うと気が遠くなる。


こうした事実を知って思うのだ。確かに、人々への啓蒙/意識改革が必要であるが、私たちに自分たちの生活を切り詰めろと迫る前に、まずプライベートジェットを禁止したり、豪邸にとんでもない税金をかけたりすべきではないか。というのも、おそらく、環境破壊をし尽くして地球が住めなくなったとしたら、そこから脱したり、わずかにしか残されていないエクメーネに移住したりするのは、他でもないセレブや実業家たちなのだ。庶民の数百倍と環境破壊に寄与している人々が、その代償を全く払わない。むしろ、環境問題の被害を受けるのはグローバルに見たときの経済的下位層の人々だ。こんなの、全くフェアではない。

これがまず、「人間の生をフェアに守る」という観点の根拠だ。



しかし、他でもない僕自身を含めて、先進国の庶民も、グローバルに見れば環境を、他地域の労働力を搾取している側に当たる。

では、やはり僕らはシャワーを浴びることや空調をつけること、ファストファッションを着ることに罪悪感を感じなければならないのだろうか。

そこで、悪いのは「資本」だ、と考えてみるとどうだろう。

従来的な大量生産大量消費社会において、資本は消費者としての私たちを飼い慣らしシステム自体に完全に内包した。だから、私たちはマクドナルドのハンバーガーが美味しいと思い、H&Mの服がカッコいいと思うわけだが、その構造自体が、やはり、他地域の環境と人々を搾取している。

しかし、資本が抑圧したのはそうした他地域の存在だけであろうか。むしろ、システムに内包された私たち自身も資本の抑圧を受け「豊かな生」を送ることを妨げられているのではないか。

見えやすいところで言えば労働問題、ローンや負債に関する社会問題、格差問題だし、全員に共通することに、例えば頻繁に広告に晒され潜在意識の領域から「選択の自由」が蝕まれている。


以上のように考えると、悪いのはやはり「資本」だ。「資本主義社会の現状を容認している私たち」も確かに悪いのだが、かと言ってそこに罪悪感を抱く必要があるのだろうか。



誤解を避けるために補足するが、僕は「私たちは悪くない」と言いたいわけではない。そうではなくて、「私たちのせいで地球が泣いている。他地域の人々が苦しんでいる。」という罪悪感や同情を背景とするムーブメントに違和感を覚えるのだ。確かに、言っていることは間違っていないのだが、「私たちが悪い」という罪悪感から始まった運動は、その目標を見誤ってしまわないだろうか。
なぜなら、罪悪感や同情を背景とした時、その運動は罪悪感を解消するためのものになってしまうからである。そうなってしまえば、もはや運動の真の成果は関係ない。

だから、「ホッキョクグマがかわいそう」「発展途上国の少女がかわいそう」「申し訳ない」という感情は、ムーブメントそのものからは断ち切らなければならない。


その代わり、次のように考えてみてはどうだろう。

発展途上国の人々だけでなく、先進国のわたしたちでさえ資本主義の悪影響を受けていて、「豊かな生」を失っているのだと。
だから,私たちがしなければないらないのは他地域の人々や地球といった他者のために心を尽くすことではない。むしろ、自分も含めた全体性として、「人間の豊かな生を守る」ことではないか。そもそも地球が滅びて困るのは自分達なのだ。地球温暖化を防がねばならないのは、ホッキョクグマがかわいそうだからではない。経済成長を第一の理想とする資本主義の下地球温暖化が加速すれば、人々が現在の居住地に住めなくなるほか、干ばつや豪雨などで農業や都市環境が破壊され、経済が滞り人々の「豊かな暮らし」、最悪の場合には人命が損なわれるからである。そしてその現象はすでに発生しており、この夏に先進国が目の当たりにしたのもこうした状況ではなかろうか。



以上の視点に加え、セレブを例に紹介した「フェア」の重要性の視点を追加すると、やっぱりこうなる。

気候変動や貧困問題など現代世界の諸問題に対しては、超領域的に「人間の豊かな生をフェアに守り続ける」ことを目標にすべきではないか。


だから、私たちは罪悪感を抱かなくてもいいし、自分の生活ばかりを責める必要はない。その代わり、現状に対する「疑問」を見つけていくのはどうだろうか。街を歩きながら、「コンビニって24時間空いてていつも商品がほぼ隙間なく詰まっている必要はあるのかな」とか、「あの自動販売機誰も使わないのに24時間365日電気を消費していて無駄だなあ」とか、「広告のチラシうぜえ。要らねえし、資源無駄やん」と気づいてくほうが、「僕らの暮らしのせいで、地球が危ない!」などと自分を責めるより価値が高いのではないか。
この時に重要なのは、視点を環境問題など特定の領域に限らないことである。例えばコンビニの例なら、従業員やオーナー、もしくは技能実習生として働く外国人の置かれた労働環境に思いを馳せれば、労働問題や人権問題といった超領域的な疑問へとつながる。こうした「資本」のシステムとしての弱点がもっと共有されていき、人間のフェアで豊かな生が目指されるーー。そんなムーブメントが、いま必要とされるのではないだろうか。



(追記)
現状の啓蒙活動、ひいては教育においては「他者に対する罪悪感」が誘発されすぎな気がする。「私たちの生の豊かさ」(ただし、ここでの「私たち」はより広い意味を指す)を高めるためにどうするか、と問いかけた方が、「自分ごと」しても捉えられるのではないか。
(それゆえ、このような議論においては、「環境問題みたいな将来世代のこととかどうでも良くね?」という論者を瞬殺することができる。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?