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母の旅立ちへの道 【気付きと感じた事①】(カミングアウト、何もしない家族に恨み節)第24回/全35回

この記事は母が旅立つまでの道のり、私が母を見送るまでの道のりを綴ったものです。


母の旅立ちと私の見送りの記事は終了。
ここからは母の旅立ちと私の見送りで道のりの中で、気付いた事や感じた事を紹介していきます。

最初に予めお断りしておきます。今回の記事は特に私の恨みと怒りが満ち溢れた文章になると思います。乱暴な文言、人としてどうかと思える表現や私の想いがあると思います。なにとぞ大目に見て頂ければと思います。


【実は私以外にも家族が居た】

第1回から第23回まで母の旅立ち、私の見送りと題してお送りしてきました。全部じゃなくてもある程度読んで頂いた方なら何となく思っていたかもしれませんが、私は一人っ子です。なので看護、介護などすべての事は私一人でやってきましたし、このnoteでの題材やタイトルも私の見送りの道と書きました。全てを私一人でやったので…という意味合いがここにはあります。

ただここでカミングアウトするのが、私には同居の父がいた事です(現在も居ます)。年齢は旅立った母(73)よりも4つ上の77歳。現在は完全に引退して10年が経ち、既往症は全く無く未だ毎日晩酌をしてるほど元気な父であります。

この私の父親ですが、第1回から第23回まで紹介した母の旅立ちの道のりの中で、父の事は全く出てこなかったのをお気づきでしょうか?。私が敢えて父の事を書かなかったのではなく、母の旅立ちに関して全くと言っていいほど関与していませんでした。なので必然的に母の見送りへの道の文章の中で書けない…という事になってしまいました。全くもって信じられない事ですが…。

どこから話して良いのか正直分からないのだけど、父はとにかく何もしなかったという感じ。実は僅かに関わってはいるのだが、ロクな関わり方をしていません。少なくとも私の目にはそう映っています。

【母が旅立つに際して、父が関わった事とは】


僅かながら母の旅立ちに関して父が関わった件を紹介してみましょう。

☆医師との面談の中で母の看護と介護を拒否

母がO病院に通院していた時期の話で、母が今後治療をしないという決断をした時です。この時今後に向けて話し合いの為に父が一緒に病院へ行きました(これも私が仕事だから頼むから来てくれと母が懇願したそうです)。その折に医師との面談の際に公然と母の看護や介護については拒否したのです。ホント信じられない話なのですが…。

その後面談した医師にゴン詰めされて「看護も介護もしてやる」と言ったそうですが、結果としてどうなったかは母と私が知っています。当然ここでの記事に載せたように殆ど何もしませんでした。まあその場しのぎの言葉だった事は明白ですね。

☆母に向かって信じられない言動の数々

母が治療をしない事を父に伝えた後、父は何かにつけて母に向かって「お前が死んだ後は…」という言葉や、死ぬことを前提とした言動を母の目の前でとります。普通は面と向かっては絶対に言わないと思うのだが…。

例えば…母のノートPCが壊れた時は…
「新しいパソコンを買え。お前が死んだら俺が使う」

母と父が一緒に銀行に行って口座を解約する際(身辺整理)、解約理由を行員に聞かれて…
「この人(母を指して)はもう直ぐ死ぬんです」
(…行員は絶句したそうです)

母が旅立った際に困らぬように予め葬儀会社に見積もりに行って帰ってくると…
「お前が死んだらこんなに金が掛かる」

自宅で脳出血を発症、完全に動けなくなった際に母に向かって
「お前が死んだらこの家を売っていいか?」

この問いかけの影響だろう、母はこの後入院するまでの間ずっと
「この家で死ぬわけにはいかない。家の価値が下がるから…」
と言い続けた。

母はどんな気持ちでこれらの父の言葉を受け止めたのだろうか。
それを思うと…。


【本当に何もしない…コイツは本当に家族か?と思う事も】

父は実際に母への看護、介護は一切しませんでした。
母が家に居た時はけっこういろんな事が起きた事は過去にも書きましたが、その一切に関与していません。自室に籠って何をやっているのやら…。そのくせ夕飯時には晩酌、終わったらさっさと部屋に戻って就寝。ちなみにその夕飯は私が毎日用意していました。

念のためにもう一度書いておきますが、父は別に悪い所は何もなく元気な70代後半の人間です。自力で歩けるし、欲しいものは自分で買いに行ってます。よく酒のつまみを買いに外出するし、また飲みに外に出る事も多々あります。

身体が悪くて人の面倒を見れないという理由でもなく、単純にめんどくさい、あるいは家族に対しての思いやりというものが一切ないという人間なのでしょう。まあ世の中にはそういう人間はいるのだろうなと思ってはいましたが、一番身近な家族にそういう人間が居たのはショックだし、恥ずかしい思いでいっぱいです。

【もし兄弟がウチの父親みたいな人だったら…】

まあ父がそういう人間なんだろうなというのは、何十年も父の言動を見ていて何となく分かってました。ただ私の立場と当時の母の状況を考えた場合、一切手を貸さない、何もしないというのは人間的にどうか?という感じはします。

途中からは父に対して期待できないという事実、そして父に向けての怒りのパワーで母の看護、介護は全部私がしました。正直怒りってすごく力を発揮する要因になるのだな…と後になってから思いましたね。

私は一人っ子でしたが、もし兄弟が居てその兄弟がこういうタイプの人間だったら…と想像すると堪らないでしょうね。しかもその後に遺産相続等の問題になった時「お前何もしてねぇじゃねぇか」となると思います。看護、介護の大変さ、看取るまでの道の大変さと悲しさは経験した人間でないと分からないでしょうからね。何もしなかった人間が後から出てきて四の五の言われた時には…ね。多分物凄く腹が立つでしょう。

【ともあれ母を無事に見送れたのは幸運だった】

こんな父親ですが、未だに母の本当の死因や最期の様子を知りません。もう母が旅立って4か月経過しますけど、私に何も聞いてこないです。夜中に緊急事態になった事、脳出血の診断、嘔気に苦しみ続けた事も全く知らないようです。逆に言えば母の苦しみを一切知らないの事は父にとっては幸せなのかもしれません。

訪問医療の先生(I先生)、緩和ケア科の先生(T先生)などの面談の際にも「ご主人(父の事)のご意見は…?」とか、すべて私が対応している様子を見て「ご主人は何をされて…?」などと聞かれる事もありました。ただ「父は看護、介護を拒否しているのです」などと恥ずかしくて本当の事を言える訳もなく、ただ「母の死に対して正面から向き合えないようです…」とそれらしい理由をつけて答えました。

家に訪問してくれていたI先生だったらもしかしたら本当の事を察したかもしれないけど、まあそれぞれの家庭の事情という事で理解してくれただろうし、もしかしたら他にもそういう家庭があって見て来たかもしれません。まあ深入りしなかったというのが本当のところかもしれませんが。

全てが終わって父の言動には怒りしかないけど、どういう形であれ母を無事に見送ることが出来た事がせめてもの救いです。もしも途中で父がしゃしゃり出てきて自分本位な考えを押し付けたりした場合、母を静かに見送ることができたなったかもしれないからね。私の見送り、母の旅立ちに関して中途半端に関与せず、全く関与しなかった事が逆に幸いしたような気もします。自分でも随分と好意的な受け止め方だと思いますが…(笑)

【このnoteの記事を一番読ませたいのは私の父】

全てが終わり母の最後の数か月を共にしてきた私にとっては、最期に至るまでの道のりの苦労、そして母の気持ちを伝えたい、分かって欲しい…という気持ちで一杯です。でも本当に伝えたいのは実はnoteの読者の皆さんではなくて、私の父親に対してですね。

しかしどうせ父はこの記事を読んでくれない事は分かっているので、結局は私の中でたった一人で抱えきれない思いや葛藤をこのnoteの記事でぶちまけているに過ぎないかもしれないです。ただここでは知って欲しい事、言いたい事は結構出せたとは思います。

母の旅立ちまでの道のりをすべて書き終えた時は正直少し心が落ち着きました。読んで下さっている方々には長々とした文章に困り果てたでしょうけど(笑)。改めてここまで読んで下さった皆様には感謝いたします。ありがとうございました。

(次回からも【全てを終えての気付きと感じた事】と題して約10回ほど続きます)

【注意事項】

この記事を書いている私は医療に関しては素人なので記事の中で間違った認識、表現、名称を記述している可能性は高いです。さらに一部で感情論に走っている面もあると思いますが、なにとぞご理解と温かい目で見て頂けるとありがたいです。


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