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母の旅立ち、私の見送りへの道 (まえがき)

3月上旬のある日、我が母は旅立ちました。
今となっては医師から明確な余命宣告を受けた日が定かではないのだが、ガンが骨に転移していると通告されてから約半年数しか持たなかった。さらに母が私に「治療をしない」と伝えてからは本当にあっという間の出来事で、最後の2~3か月は本当に様々な出来事があり過ぎた。

母は余命宣告を受けてからは身辺整理を済ませるなど、自身で最期をどういう形で迎えるかまでの道筋を完璧なまでにつけて旅立った。病院に通えなくなる事を見越して訪問看護を手配し、更にはホスピス行きまで自分で考えていたようである。さらには残された家族がその後の生活で苦労しないように大事な事を書き残し、そして残される私に全てを伝えた。

母の旅立ちを迎える準備なんて私には耐えられなかったが、「私を安心させて逝かせてくれ」という母のひと言で覚悟を決めた。あらゆることを母は私に伝えたし、私も母にあらゆることを聞いた。私自身が母が旅立った後に苦労しない為に…。そして思い残す事が無いように…とお互いに様々な話をした。

母は治療しないと決め手から僅か1か月で目に見えて体調が悪化し、次第に動けなくなっていく。2か月後にはほぼ寝たきりになって、3か月後にはホスピスにお世話になり、4か月後に母は旅立つことになる。母がある程度動けるうちに、話せるうちに伝えたい事や聞いておきたい事を済ませておいて本当に良かったと思う。

母の旅立ちの後、私は母が残した日記を読んだ。

それにはガンが骨に転移していると言われる数か月前からあった身体の異変を事細かに書き残してあった。母は旅立ちまでの間に入院、手術もあったし、退院後は通院を繰り返して検査ばかりの日々。さらに日々進行していく身体の異変に対しての不安、心配、そして心の葛藤を誰にも言わずに一人で抱えていたはず。その中で残されるであろう私の為に様々な事を用意してくれていた。今になっては本当にありがたい事ばかりであるであるが、母の日記を読んでいく中で「治療をしない」という選択肢を採ったのが11月中旬。その当時の母の決断と心境を思うと何とも言えぬ気持になる。

そして旅立つ母を見送る私にとっても、そこまでの道のりは決して優しいものではなかった。一般的な視点で見ると母の看護、介護の期間が半年だったのは意外と短かったと思うが、それでも全てをたった一人でこなして乗り切るにはそれなりに大変な事ではあった。何よりも母をたった一人で看取る事になるあの瞬間までの長い道のり。その間に感じたものを今後もずっと一人で抱えて生きていくのは正直辛い…。

私の母が生きた証は私自身が証明できるとは思う。ただ母が最期を迎えるにあたっての長い道のりを何らかの形で残したいと思いこのnoteに書いてみるとする。また個人的にはこの時の事を忘備録代わりに記しておきたいという思いもある。これは完全に私個人の気持ちの問題になるのだが、まあその辺りはお許しください。

手法としては母が残した以下の日記、私が医師(訪問)に見せる報告するために書き始めた1月からの詳細な看護記録を元に時系列に沿って纏めたものとする。

途中母と私が日記内で書き残した所感、後の回顧録も補足として入れてみる。また病院名、医師、看護師等の名前はある程度伏せつつ、オリジナルの日記、記録のまま紹介したいと思います。

あと留意して頂きたいのが、なにせ私は医療に関しては素人なので記事の中で間違った認識、表現、名称を記述している可能性は高いです。さらに一部で感情論に走っている面もあると思いますが、なにとぞご理解と温かい目で見て頂けるとありがたいです。

現在のところ母の日記、看護ノートを纏めたもの21回、あとかぎ2回。看護、介護にあたっての個別まとめ11回の合計35回の投稿を予定しています。

【「母の旅立ち、私の見送りへの道」を作成するにあたって参照したもの】

母の日記1
(母が記入・日記帳・2023年7/1~1月)
母の日記2
(母が記入・年度別簡易版の日記。2023年8月~2023年12月までを参照)
身体日記
(母が記入・2023年の9月の入院時から1月上旬まで記載)
母上看護日記
(私が記入・2024年1月~3月2日)
A看護ステーション 看護記録
(訪問看護師さんがそれぞれ記載・2024年1/6~1/29)
O病院関連資料
(診療情報提供書(T病院、H病院の緩和ケア宛て)検査結果報告書、検査詳細情報、画像診断報告書、患者情報)
H病院関連資料
(頭部MRI画像データ 検査結果報告書)
S病院関連資料
(入院治療計画書など)

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