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母の見送りへの道  あとがき 第35回/全35回

母の旅立ちと私の見送りの記事、その過程で気付いた事の記事は前回で終了しました。今回は完全なあとがきとなります。



母の旅立ち、そして私の見送りへの道の記事はようやく終わりました。予定通りに35回で終わる事になったし、私自身としても書き残したことは無い…という思いです。

長らくお付き合い頂いた皆様には感謝しておりますし、またコメントを残してくださった皆様にも感謝いたします。

このnoteで書き始めたのが5月上旬で今は8月も中旬を過ぎようとしています。

つい先日は初盆も迎えました。
実際に母が亡くなったのが3月上旬であり、そこから数えてももうすぐ半年という区切りを迎えようとしています。

3か月以上も過去を振り返り、当時の気持ちや状況を深く掘り下げました。改めて振り返っても当時は悔しく悲しい思いをした事もあれば、やってよかったという風に思えた事もあったと再認識できたと思います。

忘備録代わりではあるものの、この手の題材の記事を書くのはどうか?と思ったものの、まあ自身の気持ちに整理をつけるという意味では効果はあったのかなと思う。実際3か月前の心境と今の心境では随分と変化があるのは自分自身でも分かるので。

また母が旅立った後の私の生活も安定した…というか、まあ「慣れた」というのが正直な感想です。

一人で飯を作り、炊事、洗濯など家事全般も全部自分一人でやらなくてはならない状況下。
一人暮らしであればまあ当然の事なのだろうけども、例の男(父親)の面倒まで見るという苦痛の日々の連続(笑)。
それを含めても流石に半年あれば慣れるわけですな。
それでも1年くらい前までは普通に家事全般の殆どを母にさせていたという事実。
それを今はすべて私が一人でやっている影響もあって、時折「こりゃ母上も大変だったろうなぁ…」と思う事も多々あるわけです。
母の側からしてみれば「今更何言うとる」という感じでしょうが…。

まあ母の旅立ちによって完全に生活リズムが激変しているので、元の生活に戻るというのは無理でしょう。でもその生活に慣れた影響もあるのか、徐々に自分の時間やリズムを取り戻していきたいですね。

最後は母がこの世を生きた証として母が大好きだった写真、母の姿を映した写真などを少し紹介しつつ、これで母の旅立ちと私の見送りの記事は完結としたいと思います。

ここまで読んで頂き有難うございました。


花が大好きな母が一生懸命に育てていたお花たち。10年前はものすごい数の花壇がああったが、2年ほど前からこれらのお花は少なくなっていった。母自身が最後に向けて少しづつ片付けて行ったようである…。


10年くらい前に富山、金沢での旅行に行った時の写真。まだ特急のサンダーバードが大阪から富山まで走っていた頃である。富山タワー(1枚目の写真)の展望室で立山連峰を見ている最中に富山空港に着陸しようとしている旅客機を至近距離で見ることが出来た。これは最後の病室のベッドの上でも思い出に残っていると話してくれた。下は金沢城内で撮った母の姿。若干ポーズを取ろうとしているのだが…(笑)



母が大好きだった藤城清治さんの美術館(栃木)に行った時の写真。1枚目は母が撮った写真、2枚目はその写真を撮る事に必死になっている後ろ姿を私が撮ったもの。3枚目は入口で記念撮影したもので右側は荷物持ちのお付きの人。


母が栃木へと向かう道中に新幹線の車内から撮った富士山。富士山も大好きで事あるごとに富士山について語ることが多かった母。それに感化されてかいつの間にか私も富士山好きに。富士山への旅行計画はあったものの、実際に行く前に母のがん転移が発覚して頓挫してしまう事になった…。



母と行った最後の旅行が大分・宮崎。第一次のコロナ過の時ではあったが、結果的にこの時に行って大正解だった。1枚目は大分駅で乗る予定の特急の写真。母は特別に撮り鉄という訳ではないはずだが、それでも旅行に行くといつも自身の乗る電車の写真を撮っていた。2枚目は宮崎の青島神社でのもの。3枚目は青島神社の海岸(鬼の洗濯板)付近でこの私の姿を撮ろうとしているところを私が撮った。


今年の1月下旬、訪問診療の先生に見せられたもの。僅か1週間で数値的にあきらかに悪化しているのが分かるらしい。



今年の1月。もう自宅でほぼ寝たきりの状態になっている中で、無理矢理に頭部MRI検査の為にH病院へと向かう直前の姿。この後介護タクシーに乗ってH病院へ向かうがそこで散々な塩対応を受け、さらに検査の結果で脳出血を宣告される事になる。



今年の2月下旬のS病院の緩和ケア科での姿。病衣が乱れているのはとにかく暑がって病衣を脱ごうとしていた証拠。手の感じを見てもとにかく苦しがる感じが見て取れる。点滴の制御装置もすでに2つに増えているのが分かる。


明確にせん妄状態になったと判断され、S病院側から渡された冊子。こんなの渡されなくとも十分にネットで調べたよ…と思いつつも、いよいよその時が来たという事で覚悟を決めざるを得ない状況になった。


2月下旬。母が旅立つ3日前の姿。病衣が整っており、この時点ですでに暑がるような感じも見られなくなっている証拠。手も腰のあたりで交差させており、もう自分の意思で手を動かせるような状態ではない。当然母の手を握っても握り返してくれることも無くなってしまった。


母が旅立つ4時間ほど前の写真。胸元までタオルケットが掛けられており、もう暑がるどころか反応そのものが薄くなっている状況。この時点ですでに尿は全く出ておらず、息もかなり細くなっていた。すべての反応が薄くなってそろそろ…という雰囲気があった。


母が旅立って約3時間が経過した頃で、S病院にて葬儀会社の迎えの車を待っている時の姿。エンゼルケアで母上の髪の毛は綺麗に整えられ、また枕元には看護師さんから頂いた枕花がある。とにかくこれでやっと母上の顔から苦しがっている感じは見えなくなった。

「今まで本当に頑張ったね…お疲れ様。家に帰ろう」


【今回「母の旅立ち、私の見送りへの道」を作成するにあたって参照したもの】


母の日記1(母が記入・日記帳・2023年7/1~1月)
母の日記2(母が記入・年度別簡易版の日記。2023年8月~2023年12月までを参照)
身体日記 (母が記入・2023年の9月の入院時から1月上旬まで記載)
母上看護日記(私が記入・2024年1月~3月2日)
A看護ステーション 看護記録(訪問の看護師さんが記載・2024年1/6~1/29)
O病院関連資料(診療情報提供書(T病院、H病院の緩和ケア宛て)検査結果報告書、検査詳細情報、画像診断報告書、患者情報)
H病院関連資料(頭部MRI画像データ 検査結果報告書)
S病院関連資料(入院治療計画書など)

【母の治療、看護、介護に関わってくれた皆さん】

O医大病院
医師の方々
O病院 がん相談センター
Yさん(相談員)
I訪問クリニック
I先生
Mさん(看護師長)
スタッフの皆様
A看護ステーション
Mさん(看護師)
Oさん(看護師)
Tさん(看護師)
S病院 緩和ケア科
T先生(主治医)
Sさん(担当看護師)
Mさん(看護師)
Fさん(看護師)
そのほか看護師、スタッフの皆様
介護タクシー
Sさん(代表)
訪問入浴介護サービス
Mさん(所長)
介護福祉用品レンタル S
Hさん(○○エリア担当)
ケアマネージャー
Yさん(Iライフ・副所長)


【注意事項】

この記事を書いている私は医療に関しては素人なので記事の中で間違った認識、表現、名称を記述している可能性は高いです。さらに一部で感情論に走っている面もあると思いますが、なにとぞご理解と温かい目で見て頂けるとありがたいです。


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