人気の記事一覧

徳川家康さま☘️をたどる#67☘️御三家の基本形確立・1609年ころの家康さま

有料
100

パワースポット再び。南島原市有家町の堂崎八幡神社。1584年の「沖田畷の戦い」前夜、島津家久公は単騎こちらを訪れ戦勝祈願をしたそうです。 キリシタンの有馬晴信公と対象的なエピソードですね😊 #堂崎八幡神社 #南島原市有家町 #沖田畷の戦い #パワースポット

7か月前

天文2年(1533)2月9日は薩摩で島津四兄弟の長男・島津義久が生まれた日。義久は義弘・歳久・家久という優秀な弟たちを統率し薩摩から九州統一を進めるも秀吉の九州征伐で降った。島津家は関ヶ原の戦いでは西軍として戦ったが戦後処理で義久の粘り強い講和交渉で改易を免れ本領安堵となった。

慶長16年(1611)1月21日は島津家の最大版図を築いた島津義久が79歳で死去した日。義弘・歳久・家久という有能な弟たちを取りまとめる島津四兄弟の長男で父貴久から家督を継ぐと大友宗麟や龍造寺隆信らと争った九州三国志を制すも秀吉に降る。西軍に属した関ヶ原合戦の危機も乗り越えた。

天正14年(1586)12月15日は戸次川の戦いで敗れた豊後の大友義統が豊前龍王城へ逃れた日。3日前に豊臣先遣隊の援軍とともに島津軍に敗れた。義統は勢いに乗った島津家久にわずか1日で本拠の府内を追われるが、家臣の吉弘統幸が殿を務め追撃を遅らせたおかげで高崎山城を経由して逃れた。

天文2年(1533)2月9日は島津義久が生まれた日。薩摩から九州統一を進めるも秀吉の九州征伐で降った。関ヶ原合戦で弟義弘は西軍として戦ったが戦後処理の粘り強い講和交渉で島津は改易を免れ本領安堵となった。兄弟でも殺しあう時代にどうすれば優秀な3人もの弟を統率できるのでしょうね。

佐伯惟定(さいき これさだ)

天正12年(1584)3月24日は沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津家久軍に討たれた日。龍造寺軍は沼地・深田のあぜ道という畷の地形により大軍を活かせなかった。九州三強の一角を担っていた隆信の死は情勢を大きく動かすことに。地形を利用した家久と大軍を過信した隆信という構図なのでしょうか。

天正14年(1586)12月15日は豊後の大友義統が豊前龍王城へ逃れた日。3日前に豊臣先遣隊の援軍とともに戸次川の戦いで島津軍に敗れた。勢いに乗った島津家久にわずか1日で本拠地の府内を追われ敗走。強敵に対抗するため大きな力に頼ったら寄せ集めだったのでうまくいかなかったのでしょうか

島津家久・豊久の居城だった佐土原城址 [続日本100名城][宮崎県宮崎市]

明智光秀も登場! 京都から伊勢、奈良、山陰をゆく島津家久の戦国あばれ旅

「無礼者はぶん殴れ!」薩摩から京へ、島津家久の痛快な戦国旅日記を読む

天正14年(1586)12月12日は戸次川の戦いで豊臣軍の先遣隊が島津軍に敗れた日。大友氏救援のため仙石秀久ら先遣隊が派遣された。この戦いで長宗我部元親の嫡男信親や十河存保らが討死。秀吉から援軍が到着するまで戦端を開くなと厳命されていた秀久の無謀な渡河作戦が敗戦の原因といわれる。

天正6年(1578)11月12日は大友宗麟が高城・耳川の戦いで島津義久に大敗した日。日向国の伊東義祐が島津氏に敗れ豊後国の宗麟を頼った。宗麟は軍配者・角隈石宗や立花道雪などの反対を押し切って日向へ侵攻。この敗戦で石宗など多くの家臣が討死。さらに肥前・龍造寺隆信らの離反を招いた。

教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第9章 島津の進入と大島・沖繩②