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「無礼者はぶん殴れ!」薩摩から京へ、島津家久の痛快な戦国旅日記を読む


鹿児島県の串木野(くしきの)から京都まで、現在のJRの路線で900km余り。この道のりを戦国時代に、軍勢も連れずに旅し、旅程を日記に残した武将がいます。

島津中務大輔家久(しまづ なかつかさだゆう いえひさ)

戦国の九州にその名を轟かせた島津4兄弟の末弟で、兄弟の中で最も戦(いくさ)上手と呼ばれる人物でした。平野耕太の人気コミック『ドリフターズ』の主人公・島津豊久(とよひさ)の父親といえば、ピンとくる人もいるかもしれません。今回はそんな家久が29歳の時、京都や伊勢神宮へ旅して多くの人と出会い、大いに酒を飲み、無礼な奴はぶん殴り、とさまざまなドラマを記録する『中務大輔家久公御上京日記』を解説した記事を紹介します。

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島津義弘を上回る戦上手

戦国時代の島津氏といえば、まず島津義弘(よしひろ)を思い浮かべる人も多いでしょう。木崎原(きざきばる)の戦いや高城川(たかじょうがわ)の戦い、朝鮮出兵などで大いに勇名を馳せ、関ヶ原合戦では味方の西軍が崩壊する中、あえて敵軍に斬り込んで戦場を脱出する「敵中突破」をやってのけたことでよく知られています。

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そんな島津義弘を上回る戦上手と呼ばれたのが、今回ご紹介する島津家久です。戦国時代の島津家当主・島津貴久(たかひさ)には4人の息子がいました。貴久から当主を継承する長男の義久(よしひさ)、次男が義弘、三男が歳久(としひさ)、そして四男が家久です。家久は長兄の義久とは14歳、次兄の義弘とは13歳も齢が離れていましたが、戦いにかけては最も才能に恵まれていたようです。

たとえば沖田畷(おきたなわて)の戦いでは、劣勢ながら肥前(現、佐賀県・長崎県)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)を討ち取る殊勲をあげ、九州の勢力図を一変させました。家久はじめ島津4兄弟は優れた指揮官ぶりを発揮し、やがて戦国の九州を統一すべく快進撃を始めることになるのですが、しかしそれはもう少し先の話。

家久が京都へと旅する天正3年(1575)頃の島津氏は、薩摩(現、鹿児島県西部)・大隅(現、鹿児島県東部)を統一し、あと日向(現、宮崎県)を統一できれば、かつて三州の守護を務めた祖先の所領を回復できる、という段階でした。

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戦国時代のリアルな旅

ところで戦国時代の旅の記録は多くはありませんが、比較的知られているものに『永禄六年北国下り遣足帳(けんそくちょう)』という、僧侶が記したものがあります。家久が旅する12年前の話で、戦国時代でもお金を払えば宿泊も食事もできたことが、この記録からわかります。江戸時代のように街道や宿場が整ってはいないにせよ、商人、旅芸人、宗教者などはそうやって旅をしたのでしょう。一方、連歌師のような文化人、公家、大名の家臣などは、しかるべき寺院や有力者の世話になることが多かったようです。

では家久の場合はどうだったのでしょうか。

家久は島津家当主の実弟であり、串木野城の城主で、所領もあり、家臣も領民もいる身です。本来であれば寺院や有力者の館に泊まるところでしょうが、しかし家久の旅はオフィシャルなものではありませんでした。旅の名目は一応、兄・義久が無事に所領を治めていることを、伊勢神宮や京都の愛宕山に御礼を述べるためとしていますが、実際は領国から外の世界に出て、見聞を広めるための旅です。いわば物見遊山に、島津家が寺院や地元の有力者の協力を求めるのは、はばかられたのでしょう。

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そこで家久一行は、身分を明かさずに旅をすることを選びます。旅のアテンドは修験者の南覚坊(なんかくぼう)が務めますが、一行はあえて武士の姿をしなかったがために、さまざまな出来事に見舞われ、戦国時代のリアルな旅の実態を、後世に伝えることになりました。

では、家久の京都までの旅はどんなものだったのか。詳細はぜひ和樂webの記事『「無礼な奴はぶん殴れ!」薩摩から京都を目指す、島津家久の戦国あばれ旅』をお読みください。


薩摩武士の誇り

さて、記事はいかがでしたでしょうか。
無礼な関守や水夫を家臣がぶん殴っても、それが道理にかなうものであれば家久は当然のこととして、むしろ家臣をほめています。これを「粗野である」と決めつけるのは簡単ですが、しかしそれは現代の価値観を尺度にしたものでしょう。むしろ理不尽なこと、間違っていることは断固として許さない姿勢に、私は家久ら薩摩武士の誇りのようなものを感じました。

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一方で家久は古典や和歌にも深い関心があり、決して粗野なだけの人物ではないこともわかります。そして酒が大好きで、旅先で出会った人々と分け隔てなく陽気に酒を酌み交わす姿からは、その人柄も伝わってくるのではないでしょうか。

なお記事の最後にもありましたが、今回の記事で紹介したのは『中務大輔家久公御上京日記』のおよそ半分です。後半は京都滞在中に連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは)の世話になり、そのやりとりから家久の教養の深さが示され、また紹巴のつながりで織田(おだ)家の明智光秀(あけちみつひで)と出会うことになります。そして伊勢、奈良に足をのばし、帰路は往路と異なり日本海側のルートを旅しました。そんな後半を解説した記事は、また近日中に紹介する予定です。

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