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佐伯惟定(さいき これさだ)

生誕 1569年。豊後佐伯氏第13代当主・佐伯惟真(さいき これざね)の二男として生まれる。

1578年に父、惟真と祖父、惟教(これのり)が耳川の戦いで戦死したため、家督を継ぐ。この時9歳。現代だと小学3年生くらいです。耳川合戦では「日向後家」という未亡人が多数うまれたのですが家督も若輩の者が継ぐことが多かったようです。
1586年 豊薩合戦
周辺の諸将が次々と島津方に降る中で、客将、山田宗昌(やまだ むねまさ)を参謀にむかえて徹底抗戦した。居城・栂牟礼城(とがむれじょう)に攻め寄せた島津家久(しまづ いえひさ)の軍を堅田合戦(かただかっせん)で撃破した。この時、山田宗昌の活躍が名軍師として称えられています。合戦規模では大友800対島津2000ですからね。倍近くの敵を退けたのですから大勝利でしょうね。
島津家久はこれにより佐伯制圧を諦め、府内へと侵攻を変更します。
この後、佐伯家臣、高畑新右衛門が星河城(ほしこじょう)を攻め落とし、島津側に寝返っていた柴田紹安(しばた じょうあん)の妻子を捕らえた。このため、紹安は動揺して大友方に帰参しようとしたが、その動きを察知した島津軍に殺害された。さらに戸高将監(とだか けんもつ)率いる島津軍の輜重隊(しちょうたい)を因尾谷(いんびたに)で襲撃し全滅させている。
島津の補給路を攻撃することで大友家を助けています。惟定という人物は戦好きというか戦上手な家臣に助けられていた人物なのでしょう。なんせ島津家久の侵攻を退けているんですからね。
1587年 2月には土持親信(つちもち ちかのぶ)が守る朝日嶽城(あさひだけじょう)を奪回した。大友宗麟(おおとも そうりん)の要請を受けた豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が九州平定を開始すると、3月に府内から撤退する島津義弘(しまづ よしひろ)、家久兄弟の軍を梓峠で追撃し被害をあたえた。日向方面の大将・豊臣秀長(とよとみ ひでなが)が豊後に到着すると合流し、先導役を務めて日向に入り高城攻め等に参加した。九州平定後、秀吉は惟定の奮戦を称え感状を与えた。

1592年 文禄の役 大友軍の一員として参加。
1593年 文禄2年 大友氏改易により、惟定も居城を失う。
豊臣秀長の後継者、豊臣秀保(とよとみ ひでやす)を頼り、秀保没後はその家臣であった藤堂高虎(とうどう たかとら)に客将として招かれ、五百人扶持を与えられた。
1595年 文禄4年 高虎の宇和島入封に従い伊予に移住。
翌年に2,000石を与えられた。のち、藤堂良勝(とうどう よしかつ)に替って国府城代となる。
1597年 慶長の役 板島城 留守役を務め、当初家臣のみ出陣したが、後に渡海して海戦で功をあげた。

1600年 慶長5年 関ヶ原の戦い 宇和島城留守居役を務め、家臣のみ従軍した。
翌年以降、高虎の手掛けた普請に従事し、津城下には佐伯町を開いている。1614年 慶長19年 10月の 大坂冬の陣には、士隊10騎・卒隊40人を率いて出陣する。
当初は旗本士大将であったが、11月26日より右先鋒、藤堂高刑(とうどう たかのり)の合備となった。翌年の大坂夏の陣では遊軍部隊の指揮を命じられたが、5月6日の戦闘で先鋒が壊滅した為、7日は藤堂高吉(とうどう たかよし)と共に左先鋒を務めた。戦後4,500石に加増される。

1618年 元和4年 6月9日死去。享年50。嫡男の惟重(これしげ)が家督を相続し、佐伯家は藤堂家臣として明治に至った。

佐伯氏は大友家家臣で改易後、大名になった立花家に継ぐ一族といっていいでしょう。しかも大友一族でなく他紋衆。戦国時代の厳しい時代を生きただけ合って戦歴もなかなかです。イケイケの藤堂家において留守居役を任されていますが戦えば結果も残すところもさすがです。
信長の野望では武力がひくいなあ。武力あげて欲しい武将の一人ですね。

佐伯惟定でした。

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