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この世はタイミングが全てだなんて、そんな意見を肯定したくはない。けれども数分前に店のラストオーダーの時間が終わっており、では帰るかと見たバス停では乗りたいバスが出発するところで、その後もなにかと間違いなほうを選んできてしまった今日は、やはりタイミングなのかと思わずにはいられない。

新しい薬を服用し始めてから調子がさらに悪くなっているようだ。鍼灸にかかった際に聞いたが、一つ効果のある薬には百の副作用があるという。百は多いにしてもだ。本来そうなってはいないところを強制的に整えてしまうのだから、周りに悪影響もあって当然だろう。そう簡単に、全てがうまくはいかない。

小説がほぼできあがった。私が言いたいようなことを、小説の主人公が言ってくれている。けれど、主人公は私ではないので、そうなんだ、そう言うんだ、そうするんだ、と思うこともある。キャラクターの言動は、筆者の思い通りに書いているのではないの?と問われたなら、ちょっとだけ違う気がするのだ。

ここに書くことがうまく浮かばなくて「書けない」ことを書こうとしている。しかし、そこまでして書かなくても、もういいかな、という気持ちも正直なところ強くある。連続投稿は私の執着だ。励みになるよりも、負担になることのほうが多い。ならばいっそ、などと書けば文字は埋まるのだから、いけない。

花火を見るために外に出るような行動力を持ち合わせていない。だから毎年、音だけ聞いている。大きく響くこの音は、綺麗な花火が空に広がっていることの、そしてそれを楽しむ人々が多くいることの証なのだと、安心していられることを幸せに思う。だからこそ願いたい。どの空にも、不安な音はいらない。

自分の部屋にいる時の自分が、一番素直なのだろう。だるいとか言うし、ぐたりとするし、でも頑張らねばと思えば頑張る。外だとずっと頑張っていなければいけない。気を張り続けて、やっと帰る場所として自分の部屋があるのはありがたい。申し訳ないがその環境に甘えさせてもらって、だらりと気を抜く。

調子がとても悪い。元から自分にある原因に、外的要因がいくつか掛かっているのだろう。悪い×悪い×悪い×悪い、くらいの掛け算だ。「悪い」が大元にある以上、例えそこに「良い」を掛けられたとしても、答えは「悪い」を含んでしまうと思う。悪いを良いに変換してしまえる、そんな式を私は知らない。

動けなくなった時に動きだすための「きっかけ」を持っておくとよい。あらかじめ。動けなくなってから「きっかけ」を探しても遅い。しかし、特に問題なく動けている時は、このあと動けなくなる時が来るなんて、思いもしないのだ。なんとのんきな。「備えておけ!」と動けない今の私が、過去の私に叫ぶ。

不安というものは生まれた瞬間から膨らみ始めるようで、あっという間に自分の中にあるネガティブを仲間にして巨大化している。大きくなった不安を小さくするのは簡単なことではない。落ち着こうとするとかえって焦る。それでも冷静でいようとしよう。安心できる言葉や、歌や、物や、者の、そばにいて。

「2024年結局どの手帳をどういうふうに使っているのか」を、7月のうちにまとめておきたかったのだが、難しいかもしれない。最も億劫なのが「写真の撮影」である。あまり空きスペースのない部屋なので、物を撮影しようとするとそこに影が映り込むのだ。つまり広い部屋が私には必要(論理の飛躍)。

何か書かねばと、ただただキーを打っている。こんなようなことを、前にも書いた気がするが、思い出せない。私の記憶力はかなり悪い。昼食に何を食べたかを忘れ、明日の予定を忘れる。だが前向きに行こう。記憶力が悪いことを、忘却力が強いと言い換えてみるのだ。あの日の失敗も、もう、覚えていない。

忙しい人と比べたら全然忙しくない私だが、私にとってはこれでも忙しいのである。「みんなに比べたら私なんて」とはよく聞かれるセリフだし、私もそう思ってしまいがちであるが、そういう態度は謙虚なのではない。むしろ、自分もみんなと同じくらい忙しくなれるという前提なのは、傲慢なのではないか。

あまりアルコールを取らないのだが、今日は理由があって飲酒した。白ワインを2杯。お酒に特別に弱くはないと思う。だが、なんとなく眠たげで気持ちがよいような気がする。なるほど、こういうよい感じになりたくて、お酒を飲む人もいるのだろう。せっかくだからよい感じのまま眠りについてしまいたい。

今の自分には難しく思えることでも「やりたい」と言ってしまえば、後には引けなくなる。やらざるを得なくなる。できるようにならなければいけなくなる。言葉にしたことで誰かが見てくれる。自分の心だけでは甘くなる。何も言わないで何もしないでいれば失敗することはない。だが、成功することもない。

医院は具合が悪い時に行く所だが、具合が悪い時に出かけるのはつらい。しかし、行って診察を受けなければ、具合はもっと悪くなるかもしれない。えいやと布団をまくりあげて体を起こし、身支度をして医院へ向かう。待合室の人々は皆、具合が悪い点で仲間だが、仲間の多さによる待ち時間の長さはつらい。

猫カフェに行った。しかし14時過ぎという時間のためか、店内の猫の8割は寝ていた。おやつを買うというオプションを発動させれば、匂いで猫たちは起きてくれたかもしれない。しかし眠りの時間にこれ以上の邪魔をするのは申し訳ない。寝姿を堪能するに留めた。決しておやつ代を惜しんだわけではない。

「だるい」と訴えても、「怠けているだけでしょう」とか「元気出して」などと言われてしまうことがあるが、精神力だけでは体のだるさは変わらない。好きで動かないわけではなく、むしろ動きたいのに動けない、思うとおりに体が動かない、そんな状態を「だるい」という。ご理解いただけると幸いである。

noteにつながりにくい瞬間があり、なんだどうしたと不安になる。混雑しているだけのようだが、これでもしも、大規模な障害が起きていたら、どうしたらいいのだ。連続投稿の記録は。何より、保存されている記事は。心配したところでどうしようもないのだ。消える時は、消える。その潔さが恐ろしい。

「すごく良い風景でした」とだけ書いて、すごく良い風景の写真を付けてつぶやけば、今日はそれでよしとしてもらえないだろうか。ああ、だめだ。すごく良い風景の写真を撮っていない。そもそも、すごく良い風景を見ていない。だいたい、すごく良い風景を見ていたなら、書くことがなくて困ることはない。

ぼんやりしているうちに今日が終わっていく。何もしていなかったわけではない。仕事をしたり、食事をしたり、用事をしたりしていた。なのに全体としてぼんやりした印象の今日だ。はっきりした出来事など、頻繁に起きるものでもないのだろう。こうやってぼんやりしているうちに多分、何もかもが終わる。

珍しく早朝に書いている。思ったより早く起きてしまったからだ。そして今日は用事があるため、遅くなると書けない可能性があるからだ。用事があるので緊張して早く起きたのだろうか。だとしても、緊張するくらいの非日常がときどき日常に訪れる。それは悪いことではないだろう。しっかり起きておこう。

ちゃんとしなきゃと思うほど、ちゃんとできない。そもそも「ちゃんと」ってどういうことだ。検索してみたところ、「丁度(ちょうど)」が語源である説がいくつか見られた。ちょうど(いい感じに)しなきゃ、ということか。ちょうどいい感じに合わせることは難しい。よって、簡単にはちゃんとできない。

問:検索をかけたところ結果の一番上に表示された文章が5年前に自分で書いた記事だとわかった時の気持ちを答えよ(50文字以内)(配点10) 答:いや、あるやろ、他に、もっと適切な文章!ないんか!なんや、昔の私に助けられてしもうたわ。あんがとな。 この回答で10点もらえると思います。

このつぶやき投稿欄を、ただ「つぶやき」として使ってみたい。この欄が140字入力できる上に、文字数をちゃんとカウントしてくれるため、私はこの欄で「140字小説」を書いてしまうのだ。それをやめてみたい。140字小説を書かずに、つぶやきを残したとして、別に何が変わるわけではないのだが。

すごく具合が悪いわけではなく、ちょっと具合が悪い。もしかすると「すごく」の時のほうが逆に気合いが入って、やるべきことができてしまうのかもしれない。「ちょっと」の時が問題だ。休むほどではないが、頑張れるほどの元気はない。あやふやにどっちつかずで、やろうか、やるまいか、迷うばかりだ。

特筆すべきだと思われないちょっとした出来事も、振り返ると立派に思い出だったり、時には分岐点だったりすることもあるのではないか。どうってことのないあたりまえでありきたりな時間こそが、大事だったと思う日が来るのかもしれないし、そんなこともないのかもしれない。わからないから残してみる。

何かを作ったところでいいものができる保障はない。うまくいかない確率のほうが高い。それでも作り始めてみなければ、その何かは姿を見せてくれないのだし、作り上げてしまわなければ、その何かが何なのかを知ることもできないのだ。そしてできたそれは何であっても、作った者には愛おしいものなのだ。

疲れた。何か暖かい物を飲んで気持ちを落ち着かせたい。カフェに入りたい。そう思うのだが、同時に、カフェに入るともっと疲れるかもしれないとも思う。疲れているので少し休むか、疲れているので早く帰るか。決めることができない。疲れていて決める気力すらないのだ。そして迷っているとより疲れる。

締め切りのあるものを三つ提出した。三つも。我ながらよくやったと、とりあえずは褒める。しかし、締め切りはまたやってくる。また立ち向かわなければならない。大変である。しかし、何かが終わって、もう何もない。そんな状態のほうがきっと怖い。だからまた締め切りを作るか、作られるかして、やる。

自分がされて嫌なことは人にもしない。これは正しいようでいて、そうでもないと思う。自分と他人は違う。自分の許容範囲と、他人のそれも違う。自分が嫌だから他人も嫌なはず、だなんて、自己中心的な考え方ではないか。他人に嫌な思いをさせたくないのなら、その人を中心に物事を考えないといけない。

人間、何事も自分の身に降りかかってこないとわからないんだとは思う。想像力にも限度がある。だから、自分が知らない状況や状態にある人の話を聞かねばならないのではないのかな。誰かに起こっていることは、自分にも起こり得る。自分にもなら、自分の大切な誰かにも。他人事なんてこの世界にはない。

年を重ねるほど時間の流れが早く感じるのは、やるべきことが増えているからだという説を聞いたことがある。それらを終えるだけで時間が足りなくなるのだ。やるべきことを多く抱えている状態は忙しなく落ち着かないが、悪いものではないと思う。手持ち無沙汰で長い時間の中に放り出されてしまうよりも。

気が付くと時刻が23時23分で、202302232323を逃してしまったとがっかりしたのだが、そこで落ち込んでいる場合ではなく、2月23日中に投稿をしなければ、毎日投稿が途絶えてしまう。毎日投稿を続けるか否か。決め切れないまま続けてしまっている。習慣とはこのように恐ろしいものだ。

権威側の肩を自然に持とうとしてしまう自分の思考が嫌だ。教えられてきたためについた癖だと思いたいが、例えそうだとしても、そこから離れるのはきっと難しい。強さになびいて護身することが自分に馴染んでいるのだと、気付くたび自己嫌悪に陥る。流されたほうが楽なんだ。でも抗わなければいけない。

ずっとマイナスの辺りを微動しているような状態で、ゼロのラインを越えてややプラスになることはあっても、プラス地帯に居続けられない。気が付くとマイナス地帯に戻っている。無理に上がろうとすると反動で叩き落とされるような気がして怖い。待っていても下から押してもらえたりしないことはわかる。

陰の要素があるものに惹かれがちで、陽が強いものは苦手だなと思ってしまうことが多々あるのだけど、そこで理解されない陽の寂しさというのも、陰が理解されないことと同じように存在しているのだろうか。他者からの理解の有無など気にしない力があってこその陽な気もするのだが、それは偏見だろうか。

「こっそり物を書いています」私のプロフィール文だ。これだけだ。プロフィールとしてかなりダメだ。この一文からは「こそこそしてる人なんだな」ということしかわからない。しかも、物を書いていることを隠しているわけでもないのだ。看板に偽りあり。早くちゃんとした看板を掲げろ。話はそれからだ。

新年を迎えようとしている今、どこからか聞こえる声がある。今年を終わらせてよいのかな?できていないことがたくさんあるよ?言われなくてもわかっている。あれもこれも、できなかった。だけど、いつまでも悔やんで止まってはいられない。できなかったを、できたに変えるためにも。また始める。進む。

「投稿」欄にこれまで表示されていた、連続投稿の日、週、月が消えている。その代わりに「今日投稿すれば642日連続!すごい!」といった文章が出るようになっている。確かにこの文章で十分なのであろうが、これまでにあった表示では、今日更新したかしないかがぱっと見でわかって良かったのだった。

何事も「勘」でやってしまう傾向がある。多少の知識があったり、過去に経験があったりすれば、何とかなることもある。だが、よく知らない物事に対しては何ともならないどころか、逆効果の場合もある。物事の仕組みは論理立てて作られていて「何となく」は通用しない。勘にも知識と経験が混じっている。

「今日投稿すれば652日連続!もっと見たい!」とか言われましても……。帰ってきたのが22時50分頃でして……。何かしていたから遅くなったわけで、何もしていないわけではなく、むしろ書ける出来事はあるのですが……。それをまとめて文章にする心の余裕がないのですね……。すみませんね……。

普段の生活で電車に乗ることがないので、電車を使って移動するとなると、それはもう小旅行と言ってもいい。わりと早くから先頭で待っていた。到着した電車に乗ろうとして「あける」ボタンを押さねば扉が開かないことを失念していた。後にいた方が素早く押した。非日常の不慣れ感を早速、味わっている。

連続投稿の日数を知らせてくれる文章に「続けられることは才能!」とあった。そうかなあと思うのだ。才能というと先天的なものを想像してしまう。続けることは、後天的に身に付く力だと思うのだ。私の場合はそうだ。「続けられることは技術!」であり、続ける対象によってその技術は異なるのだと思う。

寝年末を過ごしている。余計に眠る時間があるならすべきことも、したいこともあるが、どうも疲れているようなのだ。眠って回復するのかはわからない。寝ている間に、体力か精神力か、何か自分を動かす力が充填されるとよいのだが。されなければ寝正月へとなだれ込んでしまう。まあそれもいいものだが。

毎日投稿を続けていくか、やめるか。どちらかに決めてしまえば気持ちはすっきりするだろう。そしてどちらを選んだとしても、これからどうしていくかを考えることができる。どっちつかず。この状態では前にも後ろにも進めないのだ。もちろん右にも左にも。斜め上から解答が出てきてはくれないだろうか。

21時を過ぎて、犬の散歩に出た。近所を回ってくるだけだが、怖さはある。誰もいない。誰かいたらそれはそれで怖い。どうであっても夜中に一人歩くのは怖い。犬がいるが、何かあった時に犬は私を助けてくれるだろうか。そんな一人と一匹。夜道をしばらく共にしたくらいで、親密度は上がっただろうか。

4時台に目覚めた。昨日はたくさん寝ていたので、睡眠は足りているのだろう。なのに布団から出ることができない。眠りは逃避だ。見たくない、聞きたくない、考えたくないから、眠ることでそれらから遠ざかる。いつかは目覚めると思うから、安心して逃避ができるのだ。目覚められない可能性を持たずに。

東京へ行ってきた。日付が変わる頃に帰宅した。行く前は、もっと滞在できればなどと思っていたが、体力面でも気力面でも難しかっただろう。非日常は楽しいが、刺激でもあるから損なわれるものもある。日常は傷つきにくい安定だ。面白みに欠け変化は小さい。だがその安定があるから遠くへ出かけられる。

書かねばならないと思うほど、書けなくなる。「ねば」つまり「しなければならない」と言うくらいだから、その書きたい内容は自分にとって、書かずに済ませることはできない重要な物事なのだ。だからできる限り良い文章として形にしたい。良い物にせねばと思うから、書けなくなる。ねばねばに囚われる。

昨日は4時台に目覚めたが、今日は4時を過ぎても眠れずにいた。もう朝ではないか。睡眠がぐちゃぐちゃである。心配だ。眠ることで毎日生まれる不安を鎮めているのだから。昨日の不安が残ったまま、今日を始めなければならない。単純に抱えさせられる不安は2倍だ。心配だ。そう思うほど、目は冴える。