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『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957)  ~第11章 北京虚話 ~

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10か月前

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(9)

11か月前

袁世凱そして段祺瑞 1912-26

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【百年ニュース】1920(大正9)6月19日(土)張作霖(東三省巡閲使)が奉天から北京に入る。安直両派の抗争調停のため。護衛は2個中隊(300名)に機関銃4門。日本が支持する安徽派(段祺瑞,徐樹錚)の北京政府に対し、欧米が支持する直隷派(曹錕,呉佩孚)が挑戦の意思を固め保定に集結。緊張が高まっていた。

【百年ニュース】1920(大正9)7月16日(金)日本政府、安直戦争に関し「絶対不干渉」を声明。日本軍が育成した辺防軍三個師団が、内戦不参加の公約を破り安徽派側で戦闘参加。直隷派は自派の優勢誇示のためこれを宣伝。日本政府も黙認。中国国内の反日世論が沸騰し、日本政府は釈明に追い込まれた。

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【百年ニュース】1920(大正9)7月19日(月)安直戦争で段祺瑞(安徽派)敗北。直隷派勝利。張作霖(奉天派)の直隷派側参戦が決定打となった。段祺瑞は全官職を辞し下野。中華民国(北京政府)大総統徐世昌が停戦令。日本が育成した辺防軍も壊滅し、安徽派の定国軍は解体された。

策略家で忠臣で猟犬のような

【百年ニュース】1920(大正9)7月1日(木)安直両派の衝突が目前に。安徽派(段祺瑞)への圧力を強める直隷派(曹錕,呉佩孚)が発した三要求に対し、段祺瑞は拒否を意味する最後通牒を徐世昌総統向けに通告する。同時に傘下師団に戦闘準備を命じる。張作霖の仲介は機能せず。

【百年ニュース】1920(大正9)7月7日(水)安直両派の衝突を前に、段祺瑞(安徽派)と張作霖(奉天派)が決裂。張作霖は北京郊外南苑(団河)の段祺瑞邸に招かれ、先日西北辺防司令官を罷免された徐樹錚(安徽派)に暗殺されかけた。日本政府は決裂情報察知できず。張は即奉天へ戻る。

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【百年ニュース】1920(大正9)7月9日(金)安直衝突を目前に、張作霖(奉天派)が北京から本拠地奉天に戻る。張は直隷派に加担し段祺瑞(安徽派)を討つ決心を固め兵力を動員。日本政府は状況把握せず。張の軍事顧問の町野武馬陸軍大佐(陸士10期)は張は中立、なお段が有利と報告。