策略家で忠臣で猟犬のような

1915年から28年まで中国で猛威をふるった軍閥と革命家の興亡を記述した杉山祐之著「覇王と革命」に登場する人物の中で、この時代にこんな人がいたのか、と最も強く印象に残ったのが徐樹錚(じょじゅそう)です。

徐樹錚はwikiでも検索できますが、「覇王と革命」の方が詳しく人物像が書かれていて、wikiとは違う記述もあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E6%A8%B9%E9%8C%9A

「覇王と革命家」の中の徐樹錚について、策略家と忠臣と猟犬の顔を持つ人だと感じました。

徐樹錚の能力を見出してくれたのは、北洋軍閥の首領だった袁世凱の部下の段祺瑞です。

「覇王と革命家」によれば、徐樹錚が二〇歳を過ぎたころに段祺瑞と出会い、徐樹錚との会話から徐樹錚が傑出した頭脳を持っているとわかった段祺瑞が「私のところに来ないか」と誘うと、段祺瑞に徐樹錚が仕えるだけの価値があれば行く、と返事をしたとあります。

段祺瑞はこの返事を痛快と受け止め、徐樹錚を側近として採用し、日本の陸軍士官学校に留学させます。

段祺瑞には徐樹錚の求める度量があったのでしょう、徐樹錚は四五歳で生を終えるまで、後に安徽派の軍閥を率いることになる段祺瑞による中国統治を目指して、時には謀略と外遊と戦闘に自分の能力を発揮して、段祺瑞のために働き続けます。

段祺瑞が政治で決断を迫らられる事態になれば、はっきり意見を述べる。
段祺瑞の押しで国の要職につくと、越権行為や強引な言動で段祺瑞のための政策を押し通そうとして辞職させられる。
段祺瑞の総理の地位を罷免した総統を失脚させるために、5千の兵を動員できる清朝旧臣に清朝復活をけしかける。
直隷派軍閥との政争では、曹錕(そうこん)に副総統そして大総統の地位を暗示して直隷派を分裂させる。
直隷派の軍閥に供与されるはずだった日本からの大量の兵器を強奪して、奉天系軍閥の張作霖に送る。
段祺瑞の政敵である直隷派の軍師だった陸建章を天津で銃殺する。
西北地方の軍総司令に任命されると、自治を宣言したモンゴルに兵士をトラックに積んで乗り込み、モンゴルに自治を取り消しさせる。
安徽派の勢力を強力に伸ばそうとした徐樹錚に反発した直隷派の曹錕、呉佩孚(ごはいふ)との間で直隷・安徽戦争が起きると、1万5千の兵士を率いて直隷派と戦う。
直隷・安徽戦争に敗れると日本公使館に逃げ込み、そこから日本に脱出する。
日本に脱出した後に再び中国にもどり、安徽系の残存勢力と奉天派と孫文による同盟を画策し、段祺瑞の復権をめざす。
1925年12月30日、かって銃殺した陸建章の親族の馮玉祥の部下によって、北京から天津に向かう列車の途中で降ろされて銃殺される。

wikiでは徐樹錚の最後の日々は奉天派と安徽派と直隷派の同盟を目論んで、広東の国民党に対抗しようとしたとありますが、「覇王と革命」では江浙を占領していた孫伝芳を動かして馮玉祥を駆逐し、北方の再統一を図っていたと記述が違います。

亡くなった場所もwikiでは上海とあり、こちらも「覇王と革命」とは違います。

他にもいくつか違いがありますが、どちらが正確かと言えば、杉山祐之著「覇王と革命」かと思います。

徐樹錚は段祺瑞のために様々な謀略を働きますが、段祺瑞自身は清廉潔白な人柄だったと記述されてます。

徐樹錚には何か理想があり、その理想は清廉潔白な段祺瑞による国家を造ってこそ実現できると思い、強引な言動によって数えきれないくらい敵を作っても、ためらわずに時代を突っ走ったのが徐樹錚の人生だったように思えます。

直隷・安徽戦争で敗れて日本に脱出し、また中国に戻って孫文と会談した時に、孫文から参謀として迎えたいと申し出があったと「覇王と革命」に書かれています。

その時の段祺瑞は、権力の項点に戻る可能性はきわめて低かったはずなので、孫文からの申し出を受けて国民党と行動した方が、大きく活躍でき、また富や栄誉を手にできたかもしれないと思います。

孫文からの有り難い申し出を断って、徐樹錚は段祺瑞のために働き続けることを選び、その一途さには惹かれます。

そして性格も行動も劇的ですが、最後を迎える場面も劇的で、いっそう印象が強くなりました。

徐樹錚が謀略によって銃殺した直隷派軍師の陸建章の長男は、徐樹錚が日本の陸軍士官学校に留学した時の同級生で、名前は陸承武です。

「覇王と革命」によれば、徐樹錚が深夜に陸建章の親族の馮玉祥によって銃殺された次の朝に、随員たちの前に陸承武が現れ、「父の仇を討った」と話し、新聞は「廊坊で仇討ち、徐樹錚死す」と報じていたと記述されてます。






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