小学生の頃「尊敬する人」というテーマで作文を書いた 皆、自分の親や歴史上の偉人の名を書いたが 僕が書いたのは「良寛さん」だった 大人になった今も変わっていない 混迷の時代、良寛和尚の生き方に学ぶものは多い 実は上記の作文にも同じ意見を書いた 先生には生意気だと言われたが🤣
物心ついた頃から生きることは社会に必要とされることと思っていた 能力とは何かが人より出来る、生み出せるという意味だと理解してた だから頑張り続け、、そして壊れた 仕事と社会から離れて数年 僕の中でこれらの意味はずいぶん変わった 生きることはそんなに難しいことじゃないんだと
2024年 甲辰 年明け早々の大きな地震と事故に、用意していた記事を一旦引っ込める メメント・モリ(死を想う)についての記事だったからだ いつか良いタイミングで掲載出来たらと思っている 「今、ここに生きる覚悟」 この覚悟が今年、僕らに求められていることではないだろうか
三浦しをんの「舟を編む」、ドラマにもなっていたんだ🌟 言葉になっていない思いを言語化する大切さとその難しさを上手く描いていて 最近note再開して、言語化の難しさを痛感してる僕にはとても響きました 「あきらめて、あきらめて、あきらめてほしいです」 言葉のチカラってすごい✨
まだ風に鋭さが残るが 日差しだけは春めいて来たこの頃 寒風の中 着々と新しい芽を出し始めた蝋梅 もうすぐ隣の沈丁花もほころび始める 厳しい環境にひと時立ち止まっても 未来への不安に心乱れても ただ黙々と眼前の一事を完了させていくこと それが「生きること」だと思っている
では「今、ここに生きる覚悟」とは何か 僕は「願望や心ではなく身体の声を聴き、それに従う覚悟」だと思っている 思考や心は判断を惑わす 「ありのままの自分」も実はその人の願望でしかない 自然の流れと時に応じ、一番適切な判断で自分を愛し生かそうとする身体の声をもっと聴いて生きよう
「身体の声を聴く」には感覚を研ぎ澄ます必要があり、その第一歩はまず「食」だと思っている しかしそれは味覚の好悪や栄養知識ではなく 「尊い命をいただき、わが身を生き永らえさせること」と理解することだ 命をいただき今を生きること そこに感謝が生まれた時、身体の声が聴こえ始める
うちでは冷蔵庫の電源を11月の立冬から切っている 4月までの約6ヶ月間だ 節約というより自分の傲慢や執着を減らしたい気持ちと 結局は資源の奪い合いである戦争に 砂粒程度ながら一石を投ずる意味でやってる これをどう書けば自慢話にならずに済むか迷い続けて1ヶ月 まだ書けずにいる
愛猫の葬儀後、気力が戻らず 先週は相方が持ち帰った某ウィルスに罹って高熱でダウン その上毎年恒例の7月頭の豪雨で数日間ハラハラし通し 不調の時は不調を受け入れるしかない この世の諸行無常 諸法無我を ネガティブ・ケイパビリティで受け止めると 思考のノイズは収まっていく
「信頼」とは理屈じゃなく、無意識領域から来てるものなんだ ”こいつに任せれば大丈夫” それは僕の思考ではなく身体そのものから来ている 無私無償の存在である自分の身体の声に気づき、その声を聴けるようになって 不安や怖れが減り『同行二人の大安心』で生きていけるようになった
先にも書いたが、先週相方が持ち帰った某ウィルスに罹患🤒 割と軽めの症状で、1週間で回復したと思っていたが昨日また発熱 今度は酷い咳の嵐🗣 それで自分の怒りと状況を操作しようとする気持ちに気づいた 作為と疑いを手放し 体内の無私無償の存在にすべて委ねる 疑ってごめんよ白血球
ノイズの少ない生き方とは(3)を書き始めた 自分の思ってることを書いてるハズなのに なぜか少しずつズレて行く(泣) 憧れはヘミングウェイの「売ります。赤ん坊の靴。未使用」 短い文の背後に広がる深い深い世界 分不相応と知りつつも 残りの人生でなんとかこの域に辿り着いてみたい
今日記事にUPするつもりの長文を読み返してあちこちに「進次郎構文」を発見 _| ̄|○。。。 文才の無さで長文になるのは、文章の才能が無いからです、、、😂😂😂
ガーン❗️ スマホで書いた2,000字以上の長文記事をコピペで分割しようとして📱 うっかり半分以上を消してしまった。。。😱😱😱 うううっ、しばらく立ち直れそうもない〜😭 今日はもう寝よ😞😞😞