日記(le 29 juin 2021)

相変わらず読めないし書けないこと

どうせ一日じゅう時間を持て余してスマホばかり見ているのだから、無料の青空文庫で「名作」とされる作品を読んでおこうと思っていた。具体的な名前を挙げれば、漱石鷗外潤一郎といったところ。このあたりは主要作品が青空文庫に収められている。実際、パンデミック前の助手時代には眠れない夜のつれづれにタブレットPCから鷗外の『渋江抽斎』を読み通したことがある。それでも、助手時代と比べて鬱が悪化したのか、漱石も鷗外も谷崎も手が出せない。それなりの長さのあるものを読み通せるだけの気力・体力・集中力が続かない。もちろん僕がもともとそこまでの「小説読み」でなかったという事情もなくはないのだけれど、今の読めなさはやはり病的なもののように感じる。
それから、これは漱石や鷗外と並べていいものか悩ましいマイナー・ポエットだけれど、主要な小説作品がほぼ揃っている神西清。この人に関しては『灰色の眼の女』という文庫本も持っているし、本当に読もうと思えばいつでも読める環境にある。さらに彼はとにかく文章に凝る人だったうえ長命を保たなかったから作品数自体も少なく、短篇が多いのでハードルは低いはずなのだがやはり読めない。
あとは海外文学で、ドストエフスキー米川正夫訳が少しずつ収録されつつある中で、既に完全版が収録されている『地下生活者の手記』。これはシェストフなどを介してバタイユ研究とも関係してくるし、比較的平易な訳文による仏訳も持っているし、江川卓訳の新潮文庫版に至ってはたぶん2冊持っている。ドストエフスキーの作品としては圧倒的に短いもののはずだが、それでも読めない。読むとなったら一気呵成に読み通してしまえそうな作品なのだが……。あとはこれもちゃんと読んだことがないトーマス・マンも青空文庫に入ってきているので読んでおきたい。しかし昨年、録画でヴィスコンティ「ベニスに死す」を観た(そのあと映画中で圧倒的な輝きを放っていた絶世の美少年がいかに悲惨な仕打ちを受けたかという記事を読んでうちのめされた)のをうけてこれもタブレットPCから読もうとしたが、途中で挫折してしまった。昨年の今頃ぐらいから、どんどん加速度的に鬱がひどくなっていったような気がする。

青空文庫では校正ボランティアも引き受けている。校正プロダクションをクビ同然で辞めたくせにおこがましいが……。現在、担当しているのは田辺元の短めの論考「禅源私解」。田辺の貴重なライプニッツへの言及ということもあり関心は大きいのだが、基本的に仏教の話なのでそちら方面のテクニカルタームが多く、なかなか手を付けられずにいる。そのあとに控えているのが、朝永三十郎「一般哲学史」、原田義人『反神話の季節』、和辻哲郎『イタリア古寺巡礼』
朝永三十郎はノーベル賞物理学者・朝永振一郎の父親で哲学史家。かつて旧制高校の学生を中心によく読まれた『近世に於ける「我」の自覚史』の著者として知られる。青空文庫には哲学通史のようなものがないように思ったので、校正に携わろうと思ったが、原文を読んでみると「そもそも哲学史という学問はどういう成り立ちで始まったもので、どのように展開してきたか」といった趣旨のもので、自分が期待していた簡便な哲学通史というのとは少し違うもののようで、今ひとつ気乗りしない。
原田義人は早世した独文学者で、加藤周一はじめマチネ・ポエティク周辺の人びとなどと交流があった。福永武彦『告別』は彼の葬儀をもとに書かれた小説。原田はまとまった大著を遺さないうちに死んでしまったので、『反神話の季節』は新聞や雑誌などに書いた現代ドイツ(語圏)文学に関する一般向けの論考やエッセイと、西ドイツへの留学滞在記とを併せたような本。カフカブロッホムージルの三者についてまとまったものを書きたいと願っていたようだが、カフカ、ブロッホについてはある程度の長さをもった文章が収められているものの、ムージルに関しては書けずじまいだったようだ。古井由吉経由でムージルに関心をもっただけに、ムージルに関する文章がきわめて少ないのは残念。
和辻哲郎は言わずと知れた哲学者・倫理学者。『イタリア古寺巡礼』はヨーロッパ留学中に夫人に書き送った手紙を元にしたもので、和辻自身のベストセラー『古寺巡礼』(こちらは既に青空文庫にある)にあやかってタイトルをつけられたもの。実際には建築だけでなく芸術全般に触れて回っている。正直言ってあまりヨーロッパの芸術に明るいほうではないので(かといって日本の芸術に明るいわけでもないのだが)引き受けてしまってから大丈夫かなと不安になっている。

青空文庫に積極的に関わろうと思ったのは、かつての僕のように、哲学や外国文学に関心はあるが、本を買うのもためらわれるような若者に向けて著作権の切れたものを無料で読めるようにしたいと思ったから。まして今は昔よりもずっと学生の困窮が言われている。多少古いものでも学問の入口・扉を開くようなテクストを無料で提供できたらと考えている。国会図書館のデジタルアーカイブという手もあるが、古い文献のページをそのままスキャンしたものなので読みにくいし、ましてスマホから読むことは不可能に近い。日本近代文学の名著とされる作品はある程度まで出揃ってきたから、哲学や外国文学研究と言った方面を充実させていきたい。ゆくゆくは朝永三十郎『近世に於ける「我」の自覚史』、波多野精一『西洋哲学史要』、九鬼周造西洋近世哲学史稿』上下、なども追加できないかと思っている。
朝永著は新カント派の立場なので今から見ると古めかしいかも知れないが、特定の立場から書かれた一貫した哲学史的著作として今でも読む価値はあると思う。
波多野精一のものは文語体なので読みにくいが(口語訳が出ているくらい)簡潔にして要を得た、ある時代までの哲学史となっている(もちろん波多野が時代的制約でカバーできなかった、現象学や実存哲学、その他さまざまな戦後思想については別途勉強する必要があるが)。波多野の哲学史は、特に古代ギリシアから中世にかけての記述が比較的充実しているのもおもしろいところ。
九鬼周造の哲学史は講義ノートをもとに刊行されたもので、かつて関西の哲学科の院を受けるなら哲学史のテクストとして勉強するのが必須だったと言われる。基本的にはルネサンスあたりから始まってドイツ観念論で終わっている(特に下巻はほとんどをカントが占める)ので波多野の哲学史と同様、それ以後の展開は別途自分で勉強するしかないが、かなり充実した内容の哲学史といっていい。
いずれも初学者にはとっつきにくい内容かも知れないが、経済的に余裕のない学生でも「知」にアクセスできるような環境を少しでも整えたい。……しかし現状のように「読めない」状態では、青空文庫の校正も入力もできず、どうしようもないのだが。『うつ病九段』でも描かれていたが、とにかく本が読めなくなるのだ。

そして「読めない上に書けない」状態なのに、夏の終わりに論文の〆切をひとつ抱えている。一昨年もエントリーしながら書けずに終わったもの。既に2019年の春にはゼミでの発表は終え、そのときよくまとまったものだと評されていたし、それが論文にしようとすると一向に書けずにいるのが不思議なぐらい。2019年の夏休みには書き上げるはずだったのだが……。当時から(主に2019年度前期の助手業務が激務だったために)鬱の傾向はあった。部屋から降りていって徒歩0分のコンビニに行く気力すらなく、ウーバーイーツばかり頼んでいた。今は助手の職を失って、鬱病の状態はそのころより悪化している。本当に書けるのだろうか?

書くことができないという点でいえば、歌集歌書を読んで書評めいた短い文章を書くのですら危うい。鬱で何も書けない状態のところ無理に無理を重ねて「日々のクオリア」をやっつけた反動で、短歌に関しては余計ひどくなっているのかも知れない。
前にも書いたように、歌集・川柳などについて感想文のようなものをnoteに上げると言いつつ、こちらもまだ全然そもそもの歌集や川柳を読めていない。書くとなったらそれなりの長さのある歌人論のようなものでなくてはならないような気がしてしまって、自分で自分にプレッシャーをかけてしまっているのがよくないのだろう。鬱病の人に「がんばれ」と言ってはいけないというのはすっかり浸透した言説になったが、僕の場合は自分で自分にひたすら「がんばれ!がんばれ!」と松岡修造のように暑苦しく叫び続けている感じ。自分で自分を追いつめ、追いこんでいる。
本当なら気に入った歌を順不同で引用して、簡単なコメントを付けるだけでいいはずなのに、そこに自分なりの「構成」や「論理」を持ち込みたくなる。一首一首に対する評が有機的につながって、全体としてひとつの論をなしているのが理想、と思ってしまい、その理想の重さに圧し潰されている。このあいだ戯文を書いたが、いまだに歌について書くことに関してはリハビリの道半ばといったところ。正直言って原稿料の発生するような、一定の長さと決められた題材(自分で選んだテーマなり書籍なりでなく、指定されたテーマなり課題図書なり)をもった書評・評論のたぐいはまだまだ書けそうにない。情けない話だが。

「深夜の馬鹿力」と「全裸監督」のこと

「伊集院光 深夜の馬鹿力」を聴いていてしんどいのは、ネットフリックスの「全裸監督」をシーズン1、シーズン2ともに手放しで絶賛していること。
「全裸監督」はその主要人物となるAV女優・黒木香についての扱いだけでもかなり問題含みの作品である。自分の過去作品を再販されたり、現在のプライベートを暴かれたりする事に対して何度も訴訟を起こしている「かつて黒木香であった人」から、まったく許可を取らずに制作されているのだ。そのことについて知っているのかどうかわからないが、伊集院光はそうした側面についてまったく無頓着に「全裸監督」についてトークする。ついにはネットフリックスがスポンサーにつき、今週の放送では「全裸監督」シーズン2のCMまで流れた。
もともと「深夜の馬鹿力」では、エロに関するトークが多い。最近だと構成作家が見付けてきたニッチな性癖のAVをネタにする流れが一時期あった。伊集院には話が真面目になりすぎると、そのことをごまかすために、しょうもないギャグを持ち出して場の雰囲気を変えると言う傾向があるが、そのギャグにはエロにまつわるものが少なくない。それは東京人らしい照れ隠しなのだろうが、しかしそこでエロを持ち出すのは違うのではないかと思うようになった。
「エロと表現の自由」のような話題に広がってしまうと収拾がつかなくなるので話はこれ以上膨らませないが、少なくとも「かつて黒木香であった人」の問題だけに限れば「エロと表現の自由」以前の人権問題に他ならない。他の話題についても思うのだが、「エロ無罪」「エロの話をしておけばとりあえず何とかなる」はもう古い価値観になってしまったのではないか。自分もかつてそういうところがあっただけに、これは同時に過去の自分を断罪することでもあるのだが。

伊集院光と「黒木香」というと、いつだったか、黒木香の再来、と壇蜜を評していたことも思い出される。たぶん「壇蜜のそっくりさん」として一時期出てきたグラビアアイドル・小蜜は今どうしているのか、というようなネタ投稿に触れて、壇蜜はルックスやスタイルという以上にその受け答えの聡明なおもしろさが黒木香の再来を思わせた、というような話だったように記憶している。これもいろいろ問題含みの発言なのだが、とりあえず気になった点だけ以下にメモしておく。
壇蜜は「私の奴隷になりなさい」など「濡れ場」のある映像作品に出てはいたし、初期のグラビアではバストトップや陰毛(本人曰く脱毛済みのためイミテーションとのこと)なども露出していたが、いわゆる「AV女優」ではなかった。あくまでグラビアアイドルとして出発した人。それが機転の利いた受け答えと、どこか陰のあるミステリアスな雰囲気で一世を風靡して、雑誌のグラビアだけで見る存在から、単なる「お色気要員」(これも多分に問題を含んだ概念で、事実そうした在り方は減ってきているとは思うが)を超えて、お茶の間でおなじみの「タレント」になっていった。機転の利いた受け答えをして、ある種の偶像として同性からも祀り上げられた……といった点ではかつての黒木香もそうだったのかも知れないが、自分はリアルタイムでは見ていないのでわからない。それでも今のところ、壇蜜と黒木香は別物ではないかと思う。

そんななかで伊集院光に見た唯一の希望は、師匠・三遊亭円楽との二人会にまつわるエピソードだった。それは二人会の前に予行練習も兼ねてサプライズで師匠・円楽の落語会に登場して落語「死神」を披露した際のことだったと思う(あるいは午前の部・午後の部に分かれていた二人会当日の午前の部のことだったかも知れない)。伊集院は「夢のお告げ」を信じて「おっぱい触っとけば良かった」という台詞を入れた。夢のお告げというのは、落語会が近付くことでナーバスになっていたときに何度も見た、落語の神が登場するという夢で、その神からもらったというアドバイスを忘れないうちに携帯にメモしておこうと思ってメモしたのが「おっぱい触っとけば良かった」というフレーズだった。このフレーズを、「死神」の主人公が偽医者として活動するようになるくだりで、若い女性患者を救ったあと、どうせインチキの医者なのだから治療のフリをして「おっぱい触っとけば良かった」とつぶやく、というギャグとして挟んだ。軽薄な主人公の男の性格を描写するギャグのひとつだったという。しかしそのとき噺を聴いていた夫人にあとで意見を求めたところ、落語に関しては素人の夫人が唯一言ったのが、「(治療のフリして)おっぱい触っとけば良かった」というセリフで傷付く人がいるかも知れないという一言だったという。このことで伊集院は「夢枕に立った落語の神」に授かったギャグと、妻からの冷静な意見とを天秤にかけ、それ以降「死神」を舞台にかける際にはそのセリフを削除したことを語っていた。まだ「妻からのアドバイス」という形をとっているとはいえ、こういうところから少しずつ「エロ」に対するスタンスが変わっていけばいいな、とひそかに期待している。

同じ問題は、たびたび特番として復活放送するコサキンでいまだにラビーこと関根勤が「女人(女体)鑑定師」的なキャラクターとして登場して、グラビアアイドルの品評会をする、というような企画にももしかしたら及んでくるかも知れない。コンビニからは(今どき売れない、という理由もあり)エロ本がまず撤去されたが、まだ水着グラビアを表紙に据えた週刊誌などは当然のように並んでいる。それはかつて欧米(とりわけアメリカ?)の文化を取り入れた名残なのかも知れないが、やはりだんだん消えていくもののように思われる。
関根もいつかどこかで「反コンプラ」的な、「コンプラのせいでテレビ・ラジオはつまらなくなった/やりにくくなった」というような発言をしており、そのときはいささか失望させられた。しかし確かにかつて自分たちの楽しんでいたコサキンのネタには、少なからず今から見ると問題のあるものも含まれていた。それを楽しんでいたかつての自分たちとの折り合いをどう付けていくか(似たようなことは、好きな映画である「直撃地獄拳 大逆転」におけるいくつかのセリフや設定、画作りやシークエンスなどにも感じて、矛盾した感情を抱いた)。「エロ」に限った話ではないが、とにかく時代の転換点にあって「誰かを傷付けるかも知れない」さまざまな問題について「どう折り合いを付けていくか」というのは、僕も含めた多くの人に課された問いだと思っている。

そんなわけで「エロ」以外にも話を広げると、コンプラがどうとか、PC(ポリティカル・コレクトネス)とか優等生じみたことが言われだしてからアートはつまらなくなったと言う声は確実に存在している。たとえば、ダムタイプに関するトークイベントでの、以下のような浅田彰の発言。 

もちろん、政治的・社会的にはアクティヴィズムが必要だし、坂本さんのようにアーティストではなく市民としてそういう活動に参加するというのは完全に正しい。敵がトランプとか安倍とかいうバカなやつらだったら、凡庸な優等生にも大いに頑張って退屈な正義を追求してもらえばいい。そういう優等生たちの「政治的に適切(politically correct、略してP.C.)」 な雄弁をじーっと黙って意地悪く観察しているのがダムな存在としてのアーティストでしょう。そう言えば、古橋さんが言ってましたよ、アートでは「ああ、P.C.ね」と言われたらそれでお終い、と。

だがしかし、やはりは守らなくてはならない一線というものもまた確実にあると思う。withnewsで知った、キュンチョメ反ハラスメント運動(この運動をはっきりアートと切り離して考えているという点では上記の浅田発言と相通ずる点があるかも知れないが)や、世間的には単なるエコ活動の延長としか捉えられていないSDGsの宣言を全文(※リンク先pdf注意!)読むことでその「本当の意味」を知ろうとする活動などは、共鳴する部分が多かった。僕の理解している狭い範囲だけでも、SDGsは単にプラごみを減らそうとかそういうだけの運動ではなく、労働その他による搾取をなくすことや、障碍やジェンダー、セクシュアリティなどさまざまな要素も含めたうえで「誰も置いていかれない社会」を実現しようとする大きな目標だということだ。そうした考えに触れるにつれて、今後何らかの創作をしていくときには、そういうことを考慮し、折り込みながらしなくてはならないのではないかと思うようになった。それすらも見る人が見れば「凡庸な優等生が安全圏から綺麗事を言っているだけ」に見えてしまうのかも知れないけれど……。

何より、過去の自分の発言や作品を思えば自分の手が汚れていることは言うまでもない。過去、拙作のペドフィリア的側面や性的客体化の表現を糾弾するようなツイートもあったし、『短歌タイムカプセル』と『桜前線開架宣言』を受けてそのペドフィリア的側面や、「乳房」へのフェティッシュなこだわりその問題点を暗示してくれたブログもある。何より少し前までの僕は典型的な「フェミニズムに理解のない左派」だったし、今もなおそういう側面を引きずっている。そうした「自分の手が汚れている」という意識をもったうえで、今後とも発信していこうと思っている。まあ来春には死ぬんですが。


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