近況など

2020年の前半には博士論文を完成させて提出する、という目標はCOVID-19のパンデミックにより脆くも崩れ去った。あと3本すでに準備のできている論文を書いて体裁を整えればゴール!というところまで来ていたのに、コロナ鬱というやつなのか、十年来患っている鬱病が悪化してとても論文など書ける状態ではなくなってしまった。同僚で2019年度中に博論を提出して助手から助教になっていた留学生のZさんは「せっかくコロナで助手の仕事が減ったんだから今のうちに頑張って博論終わらせるべきですよ」と言ってくれたが、どうにもならなかった。
鬱病の悪化には疫病禍によるストレスはもちろんのこと、2020年3月いっぱいで博士後期課程を満期退学することになり、それまで通っていた学内の保健センターに通い続けることができなくなり、いくつか提案された中から立地がいい(駅からすぐ、場所もわかりやすい)代わりに医師にやる気がない(ひたすら薬を取っ替え引っ替えするだけでろくに話も聞かない)病院を選んでしまったことも影響しているだろう。
だが何より大きかったのは2020年の9月いっぱいで助手の職を失い、無職になるという不安だった。アカデミック・ポストは諦めてでもと、必死でいくつもの転職サイトに登録し、エージェントにも登録し、助手在任中に次の仕事を見付けようとしたが、30歳過ぎまで大学院なんて浮世離れしたところに居座り続け、研究員だの助手だのアカデミアの内側でしか働いたことのない人間を雇ってくれるところはなかった。太ってしまって家にあるスーツはどれも着られず、妹の結婚式のためにサカゼンで買った礼服を着て面接に行っては玉砕する日々が続いた。
結局、鬱病でまったく研究はできず博士論文も出せないまま、助手室に持ち込んでいた大量の書籍の処置に困り果てつつ任期を終え、無職になった。助手は非常勤講師とは違って失業保険に入っていたのでハローワークへ出向き、鬱病の診断書も添えて300日間の失業給付を受けることになった。
失業給付を受けるにはハローワークで求職活動をしなくてはならないので、ハロワで紹介された求人に手当たり次第に履歴書を送りまくり、ときに面接まで進んでまたぞろ礼服を着て出かけては落とされることを続けていた。
それが年が明けて1月の末、たまたまハロワとは別に転職サイト経由で応募していた校正プロダクションに業務委託契約で採用されたのだが、研修期間中だけでかなりの見落としの多さを指摘され、このままでは辞めてもらうほかないと言われてビビってしまった。それでバックレるような形でプロダクションから離れてしまい、せっかく見付けた仕事をふいにしてしまった。
たまたま1月から緊急事態宣言が出ていたから今月まではハロワに行って求職活動や失業認定を受けなくても、書類を書いて郵送すれば失業給付が受けられるという特例の恩恵にあずかって、それで何とか暮らしている。
例の薬を出すばかりでやる気のないメンタルクリニックに2週間にいっぺん通うほかはほとんど外出すらしなくなって、いよいよひきこもりの度を増している。正直いまも遠出するのが怖い。電車でちょっと行ったところにあるクリニックに通うのさえ精神的に負担である。ハロワに通っていた頃はハロワに行くたび、2020年のうちに鬱が悪化して出た、ストレスで唾液が飲み込めなくなったり、奥歯を思い切り噛み締めてしまったり、そういった症状が強く出ていた。しかしまたそろそろ重い腰を上げてハロワ通いを再開せねばならないだろう。

職がないのが先か鬱が悪化したのが先か、卵と鶏の関係にも似てどちらが先かわかったものではないが、とにかく鬱が悪化してから何も楽しめなくなってしまった。毎週見ていたアイドル番組も敬遠するようになってしまったし、タブレットPCで映画やアニメを見るのも億劫だし、短歌は読めないし詠めない。
何よりつらいのが、漫画も含めて本を読めなくなってしまったこと。本を読むのがアイデンティティと言っていい人生だっただけに、本が読めないのは本当に苦痛で仕方がない。
最初の緊急事態宣言が出てから、せっかく家にこもって暮らすのだから(助手業務は在宅勤務になっていた)まとまった読書をしようとあれこれ計画していた。買い揃えてはいたものの読破できていなかった古井由吉や倉橋由美子の小説群を読むこと。ジェラール・ド・ネルヴァルの諸作品やジャン・グルニエの『孤島』(Les îles)をフランス語原書と邦訳と対照しながら読むこと。ジャン・イポリットの仏訳、金子武蔵訳、樫山欽四郎訳、長谷川宏訳と揃えてあるヘーゲルの『精神現象学』を読むこと。全巻揃えたものの手を付けられていなかった、近代詩歌を扱った漫画『月に吠えらんねえ』を読破すること。パトリック・モディアノやクレマン・ロセ(Clément Rosset)など比較的平易なフランス語で書かれた小説や哲学書を読むこと。漱石、鷗外、潤一郎の主だった作品をすべて青空文庫で読むこと。ヤフオクで安く落とした旧版の『西田幾多郎全集』や「日本の古本屋」で大学除籍本を安く手に入れた『九鬼周造全集』を読むこと。コロナ禍以前に早稲田の古本屋街で800円だか700円だか、とにかく破格の安さで見付けた岩波文庫版、原二郎訳モンテーニュ『エセー』全6巻を読破すること。
研究はできなくても読書ならできるだろうとあれこれ計画を立ててみたが、どれひとつとして読むことができなかった。去年の緊急事態宣言中でいうと、何度目になるかわからない『篠沢フランス文学講義』全5巻をところどころ拾い読みしただけに過ぎない。それどころか前々から趣味で読んでいたような知識人の評伝や自伝、それに教育史にかかわる本のたぐいすら読めなくなった。読むものといったら一日中眺めているスマホでCOVID-19関係のニュースを読むだけになってしまった。最近数ヶ月はツイッターすらまともに見られていない。ただ愚痴や希死念慮を吐き出すばかりだ。
部屋には生活を圧迫するほど本が溢れているのに、そのどれひとつとしてマトモに読むことができない。はっきりいって発狂しそうなほど苦しい。最近になって西田幾多郎の随筆を手始めに少しずつ軽いものを読むのを再開したものの、まだまだ先は長いように思われる。とにかく本を手に取ろうとすると内的な衝迫とでもいうのか、読んではいけない、読むことはできないという抑圧か禁止のようなものが胸のうちにせりあがってきて苦しくなり、活字を追うこともページをめくることもできない。
ハロワにも行かなくなって、いよいよひきこもりが極まってきたのだから時間だけはたっぷりあるのだが、読書という時間の潰し方を見失ってしまうと、どうしたらいいのかわからなくて結局一日中スマホをいじっているだけになる。

読めないのに加えて、書けないのも地味につらい。準備はすっかりできている論文を書けないでいるのはもちろんのこと、2020年は短歌関係で「日々のクオリア」という隔日連載の一首鑑賞を担当していたのだが、途中から明らかに文章量が減り、そして遂にはまったく書けなくなって長期間の休載を挟むという、かなりの迷惑を掛けるかたちになってしまった。作歌のほうも、2020年の初頭、まだCOVID-19がさほど話題になっていない時期にまとめた連作「抹消と帝政」(未発表)以来まともなものは詠めていない。正直、次に歌集をまとめるとしても「抹消と帝政」以後の作品は収録したくない。雑誌から依頼があれば無理にでも作って送ってはいるのだが、満足いく出来のものはひとつもない。

そんなこんなで職はない、博士論文は出せない、本は読めない、ものは書けない(+外に出かけるのが怖い)というひどい状況で暮らしている。頼みの綱の失業保険も、昨年10月途中からもらいはじめて、鬱病により受給期間が延びたもののそれでも300日だから夏ぐらいには終わってしまうことになる。
ことしの後期に1コマだけ大学で非常勤をやることが決まっているのだが、こんな状態でちゃんとつとまるのか甚だ心許ないし、それだけでは生活していけないだろう。ほかに9月頃に新しい本が出る予定なのだが、こういった文筆のほうも暮らしを立てていくにはとうてい足りない。
ひたすら過去を悔い、未来を恐れ、現在を呪うばかりの日々である。
100kg近く体重のある身でも十分に致死量に達するであろう量の睡眠薬と、首をくくる用のロープとを準備してはいるが、前者は吐いてしまって死にきれないかも知れないし、後者はどこにかければいいのかわからない上に手先が不器用なのでちゃんと結べるかどうかわからない。国は一刻も早く僕のようなのを安楽死させてはくれないものかと思う。

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