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52歳の死生観 -緩和ケアに携わる医師の言葉をもとに-


死生観に関して感銘を受けた記事を二つご紹介します。帯津三敬病院名誉院長の帯津良一先生がめぐみ在宅クリニック院長の小澤竹俊先生と対談したときの記事と、社会医療法人石川記念会HITO病院緩和ケア内科部長の大坂巌先生の記事です。

私は現在、52歳ですが、現時点での死生観を書き留めておこうと思います。

死は命の終わりではなく命のプロセスの一つ?

帯津先生は、免疫学の多田富雄先生が「自然界は場の階層から成る。素粒子から虚空(こくう)までの階層を成している」と述べていることを引用した上で、次のようにおっしゃっています。

つまり、がんに対して人間より一つ下の階層である臓器のみを取り扱う西洋医学では手を焼くことが多い。そうすると人間という階層を取り扱うホリスティック医学が重要になるわけですが、階層は上下全部繋がっているわけだから、空間的、時間的に人間だけ、この世だけを見ていてはいけない、死後の世界をも視野に入れた医療でなくてはいけない。そのことに気づかされたんです。

致知出版社「致知」11月号

ある講演で「医療は治したり癒やしたりするのは方便で、患者さんに寄り添うことが何よりも大事です」という話をしたところ、あるお坊さんからこう言われました。「先生、その話はよく分かります。ただ、私が見ているとドクターやナースで患者さんの命に寄り添っている方はいません。死を命の終わりではなく命のプロセスの一つとして考えると、死の向こう側が見えてくる。その時に命に寄り添うことができるのではないでしょうか」と。

患者さんに本当に寄り添うとはどういうことかを模索していましたから、このひと言にはドキッとしましたね。以来、死後の世界を含めて人間を丸ごと見る「大ホリスティック医学」を提唱するようになりました。私はこれがホリスティック医学の究極だと思っています。

致知出版社「致知」11月号

「アンチエイジング」という言葉が広まっていますが、いくらまなじりを決して老いに立ち向かったところで、いつかはやられてしまう。むしろやられることを承知の上で楽しく抵抗しながら老いを少し先送りする、多くを望まない。その上で一日一日を精いっぱい楽しく生きる。それが「ナイスエイジング」です。

私なりにこれを「老化と死とをそれとして認め、受け入れた上で、楽しく抵抗しながら自分なりの養生を果たしていき生と死の統合を目指す」と定義しているんです。

致知出版社「致知」11月号

私にとって、「死後の世界を視野に入れた医療」や「死を命の終わりではなく命のプロセスの一つ」という考え方は、私の死生観を大きく変えるものでした。多くの方も同様に思っていると勝手に想像しますが、「死んだらすべてが終わり」と考えていたためです。

この記事に触れるちょうど半年くらい前に、工学博士・田坂広志氏の「死は存在しない」という本を読んだばかりであり、その中に出てくる「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」というものの考え方を思い出させるものでした。

ゼロ・ポイント・フィールド仮説

ゼロ・ポイント・フィールドには「この字宙の全ての出来事の情報が記録されている」という仮説で、大坂先生も記事の中で次のように触れています。

何やら怪しげな、と思われるかもしれませんが、世に偶然の一致とか第六感、直感、以心伝心、海外の概念ではシンクロニシティ、セレンディピティ、プランドハップンスタンス(Planned Happenstance 計画的偶発性)理論という言葉がありますよね。これらの仮説で考えると、偶然の一致?などもつじつまが合いませんか。

一流の芸術家が「天から降ってきた」と言われます。そんなすごいお知らせは降ってこなくても、誰もが一度は、偶然のメッセージを受けた経験があるはず。「そりやお告げでしょ」で片付けてしまわずに、人はゼロ・ポイント・フィールドという場にアクセスすることで、その中に蓄積されているという情報を引き出しているのでは、と考えてみる。

近年の物理学では時間というものは存在しない、脳が錯覚しているだけ、という説もあるそうですが、インターネットのクラウドのイメージです。勘の鋭い方とか第六感が働く方は、多分ちょっとした瞬間に、そこにつながることができる方なのでは?亡くなった懐かしいあの人、かわいがっていたペット、生前そのままの姿ではないけれど、その存在は理解できるから、会える。だから、断絶的な「死」はない、となります。

ロータリーの友 2023年 VOL.71 NO.12より

このような考え方は、私の想像を超える世界であり、実際にどうなのかわからないところではありますが、「なるほど、こういう考えもあるな」「確かに、不思議な感覚に遭遇することがあるな」と感心させられます。

死後の世界のことは誰もわからないと思いますので、どうしてもスピリチュアルな話になってしまうのですが、田坂氏が著書の中で科学的な解明を試みていることに感銘を受けます。

阿頼耶識(あらやしき)

ゼロ・ポイント・フィールドは、仏教の唯識にも通じるところがあります。

唯識は、大きく表層心と深層心に分かれます。表層心は「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」の「前五識」と前五識が捉えた物事に意味を与え判断を下す「第六識」からなります。

そして、深層心は、第七末那識(まなしき)と第八阿頼耶識(あらやしき)からなります。阿頼耶識は遠い過去からの言動の履歴を蓄え、人の行いや思考の根本を司どるもので「不可知」とされます。この阿頼耶識の説明を聞くと、まさにゼロ・ポイント・フィールドのことを言っているように思えます。ちなみに、末那識は阿頼耶識の影響を第六識に伝える役割です。

非認知脳からFLOW、そしてZONE

阿頼耶識は不可知、すなわち知ることができない領域ですが、それは先日投稿した「非認知脳→FLOW→ZONE」の流れを思い出させます。

FLOWは非認知脳(=外界からの刺激に左右されない領域)によって自分のありのままの感情を大切にすることで機嫌良い感じの自然体を作り出すもので、FLOWが極まればZONEに入ります。一流アスリートがZONEに入るというあれです。

このZONEの状態というのが、ゼロ・ポイント・フィールドや阿頼耶識と同義ということも言えるのかもしれません。

広がるエネルギー

死生観とは少しずれるのですが、帯津先生は次のようにも述べています。

誰もが持つ生命エネルギー、身の回りの生命場を高めることによってそこにいる人たちが癒やされる。医療という場のエネルギーが高まれば、患者さんが救われ、スタッフやご家族が癒やされる。それが人々の幸福、地球にも影響を及ぼすようになるのではないでしょうか。

致知出版社「致知」11月号

これは、まさに私たちが携わる介護福祉に言い換えることができます。

「支援という場のエネルギーが高まれば、子供たちや利用者さんが救われ、スタッフやご家族が癒される。それが人々の幸福、社会にも影響を及ぼすようになる。」

エネルギーや熱意というものは目に見えないものですが、私たちはそれをなんとなく実感することができます。ドラゴンボールでいう「元気玉」という皆の「気」の塊のようなもの、ゼロ・ポイントフィールドや阿頼耶識といった場所のエネルギーが地球や社会に影響を及ぼすという考え方は否定できるものでもないように思えます。

人生の四季

いのちを24時間に例えたり、四季に例える考え方があります。人生100年だとすれば、私は現在、52歳なので、24時間で言えば昼の12時を過ぎたあたり。四季で言えば夏真っ盛りを終えて、秋に差し掛かったところと言えるでしょうか。

芽吹き、花咲き、さまざまな出会いや経験、挫折を繰り返し、それらが実る時季です。やがて夜に差し掛かり、冬が訪れる。この世でのいのちは無くなるけれど、私にはやるべきことがあります。実った成果を次の世代に引き継ぐことです。

引き継ぐということ

この世に名を残したわけでも大成したわけでもない。ですが、培ってきたものを引き継ぐことはできます。それは思いだったり、ノウハウだったり、会社や物だったりもします。引き継ぐことの大小だったり、良し悪しというよりも、遺せるものを遺せばいいと考えています。それが生の先にあるものであり、死なのかもしれません。

死んだら心はどうなるのか分かりませんが、物質としては灰となって大気中を漂うのでしょう。それは科学的に言うといつか消滅するのかしないのか分かりません。ただ、灰になって空や海や大地に還っていくのでしょう。

死も生の一部というのであれば、死は人生の通過点です。もしかすると、生の方が人生の通過点に過ぎず、死とはただただ元に戻るだけなのかもしれません。

そうは言っても、余命宣告されたり突然に死が訪れない限り、私にはまだ生きる時間は残されているようです。次の世代により良きものが遺せるよう、あまり気負いせずに日々を積み重ねていこうと思います。

最後に、大坂先生が素敵な詩と言葉、それぞれ一編ずつ紹介されていますので引用させていただきます。

わたしは浜辺に立っていた
朝のそよ風の中を一隻のヨットが沖へ向かっていくのが見えた
それは美しく人生を思わせた
わたしはヨットが水平線に消えていくまで見つめていた
わたしのそばで誰かが言った
「行ってしまった」
行ってしまった?どこへ?
わたしの見えないところへ、ただそれだけのこと!
マストはまだ高く張られたまま
船体はまだ人を運ぶ力をもったまま
わたしの視界からは完全に消えてしまったけれど
ヨットは消えてはいない
わたしのそばで誰かが「行ってしまった」と言ったとき
水平線の向こうには他の人たちがいる
小さな点が近づいてくるのを見て喜びの声をあげる
「やって来たぞ!」
これこそが死なのだ!

ウィリアム・ブレイク(1757〜1827)

「自分はずうっと落ちていく雪のようなもので、最後に海にポチャンと溶けて自分がなくなってしまう。そして最後に自分は海だったと思い出す」

神経生理学者スティーヴン・ラバージ(1947〜)

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