前編:『佐伯春菜』とはこういう人間
想いの強さと運の強さで掴み取ってきた人生と
その反対に自分の弱さに向き合い続け、戦う27歳
お久しぶりです!父のためにも起業をめざしている佐伯春菜です。
先日はnote初投稿をご覧いただき、誠に有難うございました!
ご覧いただき、いいねをしてくれる方が0じゃなくてよかった!!!
とホッとしてました。
以前の投稿でお話をしていた、「佐伯春菜」という人間について自己紹介が出来たらと思います。
どうしても人生を語ると長くなってしまうので、前・後編に分けてます。
前編:幼少期〜学生時代
後編:社会人になってから
直近の状況や、ビジネスについては後編をご覧くださいませ。
「人一倍強い想いの強さ」
「諦めずに突進していく行動力」
「ライオンの様に怖いもの知らずな姿勢」
そんな佐伯春菜の根源をまとめています。
一緒に頑張ろうと思える方が増えたら嬉しい限りです。
【Instagramアカウント】
こちら最新情報をストーリーズにて発信しています。
1.佐伯春菜の「自分史」
【岐阜県の飛騨高山市という地に生まれる】
この世に誕生してから27歳の今日までの「佐伯春菜」という人間の自己紹介をさせていただきます。
◆私の名前の由来
「春菜」という名前の由来は、色々あるそうですが、
・春に生まれたからこそ、春の様に温かく
・菜の花の黄色の様に明るく、優しく育ってほしい
そして父は「菜」という漫画が好きだったそうで、そういうほっこりした人生を歩んで欲しいという願いも込められたそうです。
どおりで活動的な反面、ほっこり穏やかなマイペースな性格も持ってるな〜と納得しました!
実際たった今、この漫画を読みに行きました。想像以上にほっこりしていて、思わず1人、オフィスで読みながら、父の愛を感じて号泣です。
本当に私は愛されているんだな~大切にされているんだな~と。
是非、皆様にも、ご自身の名前の由来を親御さまに聞いて欲しいです。
私はこれまでウェディングプランナーや、とあるベンチャー企業の新卒採用人事をしていました。
沢山の方々の人生の分岐点に立ち会ってきたからこそ、1名1名の人生の色濃いドラマは輝かしく、みんな素晴らしい、誇らしい人生を生きているということを、目の当たりにしてきました。
時には一緒に涙を流しながら、人生を語ってくれたそんな方々が沢山います。
そうは言われても自分自身の人生だとその尊さに気づけなかったりしますよね。私もまた、自分に自信を無くす日が来るかもしれません。
でもそんな時、「大丈夫」と言って「これまでの人生の素晴らしさを忘れないでね。」と振り返り、自分で自分を大切に抱きしめてあげる日をつくりたいと思いました。
皆様もどうか、自分を大切に。
誰かを笑顔に出来たら、それはその瞬間から自分に返ってきます。
目にうつる全ての方々に優しい気持ちと声がけを意識し続けたいと思いました。
さて、続けます。
ー幼少期は極度の人見知りだった
親族の集まりでも物凄く緊張してしまい母親の後ろに隠れている様な、そんな子でした。
今この話をするとまったく皆様に信じて貰えないのですが、それくらい人見知りでした。
ですが、本来は活発な女の子で、幼少期からおままごとなんてそっちのけで、男の子たちに混ざって外で走り回ったり、大きなブロックを使った遊びに没頭していました。男の子っぽい感じというか、そっちが好きだったのだと思います。
今でも笑えるのは、5~6歳の時の発表会で「ピーターパン」の劇をすることになり女の子たちはみんな、お姉ちゃん役で美しい「ウェンディ」をやりたいという中、私は迷わずピーターパン役を志望、男の子たちに交じってピーターパンを演じていました。(笑)
そんな人見知り×ボーイッシュな女の子でした。
ー両親からのなんちゃってスポーツ英才教育
そして小学校にあがると、父親から公園で50m走の走り方や、持久走、ボールの投げ方、絵の描き方、母親からは水泳を学び、休日は公園やプールで特訓をして貰っていました。ピアノをしたり、そろばんを習ったり、公文に通ったり。沢山習い事をしました。
そのスポーツ指導のお陰もあってか、小学校からはずっと選抜リレーに選ばれ、アンカーを任されるスポーツ女子になりました。
中学の時はスポーツテスト1種目だけ9点でしたが、その他オール10点を取り、学年1位の成績を収めるそんな子でした。
小学1~2年生のころからはスポーツが好きだったこともあり、友人に誘われてバドミントンのクラブチームに入りました。
学校が終わってから夜まで練習。
今思うと毎日の様に送り迎えをしてくれていた両親に本当に感謝です。
金曜日などは練習が21時過ぎまであり、帰宅すると金スマのエンディング前になっていたことを思い出します。
中学生の頃は学校で授業→部活でランニングなどトレーニング→クラブチームでの練習をしていて毎日帰宅が夜でした。
このクラブチームで人生や人間関係、色々なことを学ぶのでした。。。
何度も胸が痛くなる経験をしてきました。
でもだからこそ、私が今でも大切にしている言葉に出会います。
『守りたいものを、自分の力で守れる人になる』
この言葉は、私の人生において1番大切にしたいと思う決意の言葉です。
そして小学校5年生になる頃には私は「将来の夢」を強くもつことになります。それが「ウェディングプランナー」です。
そこから、図書館などで様々な本を読み、ウェディングプランナーという仕事、結婚式というものについて勉強をしました。
ー中学校の卒業文集に書いていた言葉
「私は将来、ウェディングプランナーになって、たくさんの人を笑顔にし幸せにします。いつか社長になって、素敵な旦那さんと世界一幸せになります。」
と掲げていました。
最速でウェディングプランナーになるためにも、専門学校へ行きたかったので、高校だけは地元で1番の進学校へ行こうと決めて猛勉強しました。
その高校は偏差値60ほどですが、そこから東大や京大、MARCH、関関同立、国公立大学への進学する人が沢山いました。
友人たちも皆、優秀でした。
この絵に描かれている担任だった大好きな建石先生には、
「この高校への受験は正直厳しいと思う。」そう言われてました。
ですが、そこで諦めないのが佐伯春菜です。
通っていた塾でマンツーマンで勉強を教えてもらい、且つ深夜2時過ぎまで塾をあけて貰い勉強に向き合う環境をいただきました。
今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
受験当日まで、中学校へ通う登下校も毎日友人とテストを出し合い勉学に励んでいました。
そして、受験の日は・・・・・・・・・
全く記憶がありません。
ー高校受験の合格発表の日
母親とドキドキしながら掲示板へ向かい。不安な気持ちに押しつぶれそうになりながら、歩きました。もちろん無言です。(笑)
そして、番号を見つけた時、私より母がとても喜んでいたことを今でもよく覚えています。
そうして高校受験も無事に終わり、進学してからも色々ありました。
勉強の熱は燃え尽き症候群の様に冷めて、周りの友人たちが大学を目指す中、申し訳ないと思いつつ、私は次の専門学校進学を視野に入れて生活をしていました。
・数学の再テストを何度もさぼって、熊みたいな大きな身体の先生に体育館で追いかけまわされて本気で怖くて号泣したり笑
・高校の屋上に友人たちとこっそり登ったり
・当時付き合っていた他校の彼の文化祭の劇を観るために、午後の授業をサボって抜け出したり
・ぺこりゅうちぇるが大好きだったのでカラフルな原色カラーの服を身にまとったり
そんな自分らしい、マイウェイな青春を送っていました。
【いざ、東京へ出陣】
ーVANTANデザイン研究所への進学
高校の先生や親族の「大学へ進学しなさい!!看護師になりなさい!!」などの言葉を綺麗に鮮やかにスルーして、私は第一希望のVANTANデザイン研修所ー東京恵比寿校へ進学します。
ファッション、メイク、ゲームなど最先端な学部があるこの学校へ通う事は私の中で一種の憧れでした。このブライダル学部へ進学しました。
ここに通ったからこそかの有名な『CRAZY WEDDING』の皆様とコラボレーションをしたり、山川咲さんに出会うのです。
クラスメイトとの熱量の違いや、プレゼン大会での敗北、翌年には1位を獲得。様々なことがありましたが、色彩検定、マナープロトコール検定に合格。
そして、卒業制作では成績優秀者が抜擢される総監督に任命されました。
このタイミングでリーダーとはどうあるべきかを体験させて貰いました。
私はこの専門学生の時期に
・西麻布にあるお鮨屋さん
・結婚式場(テイクアンドギヴ・ニーズ、CRAZY WEDDINGなど)
・居酒屋
などアルバイトを掛け持ちして、生活費を稼いでいました。
仕送りなどは一切なしです。
毎日朝早くから遅くまで働いても楽しくて幸せでした。
ー人生で初の憧れの人:野尻佳孝会長
高校の頃に読んだ本で私の人生の1番目の指針となった野尻佳孝さん
テイクアンドギブニーズというブライダル最大手企業の会長です。
私が働いていたのは、青山迎賓館という式場で、とても有名で格式高い会場でした。
沢山怒られながらもお客様に真剣に向き合う、プロフェッショナルの方々を目の当たりにしました。小巻さんという素敵な優しいマネージャーの女性にも出会いました。沢山泣き顔を見られました。笑
私には好きな時間があって、それは結婚式の日の朝に担当ウェディングプランナーさんが行うミーティングです。
当日、この結婚式に携わるスタッフたちが集まり、新郎新婦様への想いや、これまで打合せをしてきたからこそ生まれた話、親御さんからの想いなどそのおふたりに毎回全力で向き合っているプランナーさんだからこそ話せるお話を伺うのが大好きでした。
結婚式はこれくらい本気で向き合うべき大切な日なんだと改めて思いました。
数年後私が、逆に話す側になって、学生たちや一緒に結婚式をつくる皆様の心を動かす側になるとは、この時の若造の私は、思ってもみませんでした。
ー遅刻をした就職活動:テイクアンドギヴ・ニーズ
その後就職活動では、みんなが何社も受けるなか私はテイクアンドギヴ・ニーズ1本で考えており、一応もう1つの会社の2社だけに絞り、テイクアンドギヴ・ニーズ大本命で臨みました。
結果から話すと6回ほどあるはずの面接が3回と社長面談で内定をいただきました。
しかし、私はなんと大切な2次面接で遅刻をしてしまったのです。。。
本当に馬鹿野郎人間でした。オフィスビルを間違えてしまったのです。
社会人として今の私だと考えられないミスです。
課長の女性との面接だったのですが、女性もかなり怒っていて、その圧に負けて私は面接でタジタジ、言いたい事が伝えられずあっけなく終了してしまうのです。
このままでは絶対にまずい。そう思って私は決死の覚悟で
「本日は大変申し訳ございませでした。お忙しいかと思うのですが、
あと1分だけ、1分だけください。」と伝え、
「今日の面接では自分が動揺してしまい伝えたいことが1㎜も伝えられませんでした。それは私の未熟さです。ただ、私は高校生のころからテイクアンドギヴ・ニーズの野尻会長に憧れて、絶対にここで働きたい、T&Gでしか出来ない結婚式があることを知っています。私もここで新郎新婦様を幸せにしたい!!そう思っているんです!!!」
と伝えました、熱く強く、想いを込めて伝えていました。
この最後の1分。
この時勇気を出して立ち向かっていなかったら、きっとT&Gに入社するなんてことは、絶対に無かっただろうなと思います。課長、想いを汲んでくださって本当に感謝しています。
ーTRUNK(HOTEL)開業準備室にジョイン
その後、内定が決まっている状態で、お声がけいただきTRUNK(HOTEL)の開業準備室でのお仕事をさせていただきました。
毎日とても緊張していました。
いつか野尻会長にお会い出来た時には、サインを貰おうと野尻会長の本を持ち歩いて通っていました。笑
そして遂にその日が来ます。
階段ですれ違うんです!
野尻会長にお会いできたこの瞬間を逃してはいけない!!と勇気を振り絞り、声をかけてサインを頂戴しました。
最後にがんばれよ!!と激励していただいたことを今でも宝物の様に大切に思っています。
そしてそこから時は流れ
2017年5月13日いよいよTRUNK(HOTEL)が開業
ーいよいよ私の社会人生活がスタート
ここからは後編へ
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