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母親を殺しそうになった話

1月中旬に受けた助産師学校の試験は不合格だった。大学病院への就職手続きの期限が1週間後に迫り、母に「看護師になりたい」と本音を打ち明けた。だが「あんたが我を通して、私はまた不幸のどん底にたたき落とされた」と一蹴される。その後、母は夜通し怒鳴り続けた。被告の我慢は限界に達していた。1月19日のことだった。

『医学部受験で9年浪人 〝教育虐待〟の果てに… 母殺害の裁判で浮かび上がった親子の実態』(2021年3月15日17時20分閲覧)
https://news.yahoo.co.jp/articles/d5b7c9abc007a7f260c980e32aecd6575dedf309

子どもを愛さない親なんていないと言うけれど

愛していれば何をしてもいいのか。
愛しているとは何なのか。
教育にお金をかけることなのか。
衣食住を提供することなのか。
それらを満たしていれば暴力をふるっても、脅迫をしても、愛しているということになるのなら、僕は確かに母に愛されている。

十年も医学部浪人を強要された彼女の気持ちは分からない。
僕は私立高校の受験しかしていない。結果的にそこそこいい大学をストレートで卒業できたのは降って湧いたラッキーだった。代償は22歳まで実家で母親に暴力をふるわれたこと、持ち物・スケジュール・人間関係を検査・管理・廃棄されたこと、お前に幾らかかったと思ってるんだとか私が死んだらお前のせいだとかお前が死ねだとか夜半に帝国劇場のボリュームでお送りするワンマンショーの観客にさせられたこと。
それくらいだ。

それでも何度か、運命とでも呼ぶべきタイミングがあった。
もう楽になりたいという気持ちが勝ちそうになることがあった。
そのうち一回が、家族が食事をしている間、台所の洗い場に立っていた僕の視界に包丁が飛び込んできた時だ。

手が震えて、呼吸が浅くなったのを覚えている。
ダイニングの扉を開けてすぐ手前に母は背中を向けて座っている。
利き手である左手に、逆手で包丁を握って、扉を開けて出し抜けに一発振り払えば首を切れる。
殺したいから救急には通報したくないけど、警察はちゃんと呼ぶつもりだった。捕まりたい。刑務所に行きたい。どんなところか分からないけど。
なんでもいいからこの家を出たい。全部終わりにしたい。
憔悴しきって正常な判断能力を失っていた僕には、運命を変える方法はこれしか思いつかなかった。

これを思いとどまることが出来たのは、僕の部屋着の左ポケットにスマホが入っていたからだ。僕の左手は包丁に辿りつくより早くスマホに辿りついた。
ツイッターを開いた。
『母親を殺してしまいそうです』
信頼して、何度か会っていたフォロワーたちとのグループメッセージに送った。今までも何度か自分の家族の相談はさせてもらっていて、その中にはカウンセリングを生業としている方もいた。
それでもこんなに突然じゃ驚いただろう。
誰からも返事が書き込まれない僅かな時間、僕の心臓はまだ痛いほど鳴っていた。

やがてグループメッセージに次々返信が入りはじめた。
緊急ならこの番号で通話をしよう、とか、何があったのか聞かせて、とか。
僕は順を追って何が起きたか、すぐには説明できなかった。
これはなかば仕方のないことで、何か特別なことが起きて殺意が沸くのではなく、毎日の積み重ねがあった上で、ある日ある瞬間のある振る舞いや言葉で引き金に指がかかってしまうのだ。
それを順を追って話すのは、十数年分の日記を暗唱するのに近い。

その時のメッセージのログを読み返すと、僕はそのあと風呂に入って一旦気分を落ち着けたようだった。それからグループメッセージにいたフォロワーと通話を繋いでもらって、やっと平静を取り戻した。

あの時、僕の人生を運命づけたものは左手に触れたスマホだった。
スマホに手が触れなければ。
そこに家庭の外で培った人間関係がなければ。
そこに信頼できる外部の人がいなければ。

十年も頑張らざるを得なかった彼女と比べれば、堪え性のない駄目人間だ。
親の愛を説きたいお節介な他人からの評価はそれでいい。
僕はそうではない誰かに向けて、この記事を書いた。

虐待の記憶は外部の人に打ち明けるのが難しい。

この文章だって例えば「お前がフォロワーにDMを送ったスマホは親の金で買ってもらったものだろうが」と言いたい人がいるだろう。実際にそういう風刺のつもりらしい漫画も見たことがある。他人の家庭内の人間関係は貨幣経済ほど信用されない。
誰でもいいわけじゃない。傷つくかもしれない。
そして、打ち明けたところで問題は解決しない。
自分の人生の責任が自分にあることも変わりはしない。
それでも家族というブラックボックスの外に、どうか繋がろうとすることを諦めないでほしい。
何故なら家族は世界のすべてでも、人生のすべてでもないから。

僕はそうやって信頼できる人たちの手を借りながら、自分の手で自分の人生を取り戻そうとしている。
そして、僕に似た誰かが、同じように自分の手で自分の人生を取り戻せることを祈っている。

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