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春、春、春! 2023/3/12 Sunday

ここ最近突然気温が上がった。晴れの日は家の中よりも外の方が暖かいくらいだ。信州にもようやく春が来た。
今日は晴れていたから散歩に出かけた。
紫外線は白内障の原因になり目に良くないが、太陽光に含まれるヴァイオレットライトという光線は近視を抑制する遺伝子に刺激を与えるため目に良いのだとか。だから1日2時間ほど屋外で運動することを眼科医が本で勧めていた。私はもう少しで強度近視になってしまうほど近視が進んでおり、成長期を終えてからも悪化していた。その上飛蚊症も目立つようになり、昨年眼科を受診した際に眼科医に「50代の目」と言われた。父親が60代で目の手術をしたことを考えると私はあと10年で手術しないといけなくなるかもしれない、そして60代で失明の可能性もあるな、と考えると恐ろしくなった。
目の悪さについては生活習慣もあるが私の場合遺伝的要素が影響し父親のように近視と乱視が進んできているのでこれはもう逃れようのない運命と言うほかなさそうだった。さらに幼少期からのステロイド薬使用の副作用によるものも大きいと思われる。眼科医をして「50代の目」と言わしめた水晶体の濁りはアレルギーで腫れ上がり炎症した瞼へのストロイド薬塗布の副作用だろう。私が60代になる頃には今よりも医療が進んで眼病になっても手術で失明は避けられるようになっていることを祈るとともに今自分に出来る改善をしていくしかない。
眼科医が本で書いていたように、近距離作業をなるべくしないようにすること、する場合は20分近距離作業をしたら20分6メートル以上先を見ること。しかし20分も手元から視線を外し遠くをぼおっと見つめるというのは職場では難しそうだ。遠くを見つめながら出来る作業があればいいのだが。
あとはストレスを溜めないこと。ストレスは眼圧を上げる。
眼圧が上がると緑内障などの眼病リスクが高まる。眼圧が上がることで眼球が変形し眼軸長が伸びるということだろうか。ということは、ストレスで近視が進む? その可能性はある。
ストレスは本当に身体に良くない。ストレスにより血流が悪くなると身体がむくみ、眼圧が上がるだけでなく内耳のリンパ液も膨張しメニエール病や難聴になる。

散歩はストレス発散に効果的だ。特に晴れて暖かい陽気の散歩は。歩くのも景色を眺めるのも楽しい。ソローが一日中散歩をして思索にふけっていたのは人体の仕組みを考えると実に合理的と言える。冬にもたまに散歩していたが氷点下の散歩は楽しくはなかった。極寒の灰色の風景の中を黙々と歩くのは従軍に近くシベリア出兵を彷彿とさせた。今思い返すと冬の景色は時が止まっていた。草木は枯れて凍り付いた川には鴨や白鳥の姿は無く野鳥の鳴き声も聞こえなかった。餌となる虫たちが寒さで死に絶えた時、鳥たちは一体どこでどのように冬を乗り越えているのだろう?
今度調べることにする。
とにかく私は健康維持のために本を持って散歩に出かけた。持ち出した本はエリザ・スア・デュサパン著『ソクチュの冬』。半分くらいまで読み進めたが未だどのように楽しんだら良いのか分からない。これ以上読み進めるのが躊躇われるほどに。読書体験から何かを得たいと思っているがために、サンクコストを追いかけているのではないか、という気持ちになる。これ以上この小説に時間を費やす意味はあるのかと考えるにつけ、いつの間にか忙しい大人の読書をしている自分が嫌になるが、人生の有限性を知ってしまったからには仕方がない。
一体この小説は何を表現したいのか? エピソードにどんな意味が? 伏線は? 良きメタファーや効果的なアレゴリーは? 詩的な、もしくは挑戦的な表現を見いだせない。主人公の目的や課題がそもそも全く見えてこない。私は一体何を読んでいるのだろう。
束草(ソクチュ)の宿で働く主人公の「わたし」と宿泊客であるフランス人のバンド・デシネ(マンガ)作家「ケラン」との交流を描いているのだが、今のところ何も起こらない。少なくとも核心的なことは何も。フランス文学ってこういうものなのだろうか。日本のエキサイティングな漫画やアニメ、ハリウッドの脚本、綿密に作り込まれたプロットの人間ドラマに慣れすぎてフランス文学というものを持て余しているようだった。散歩の間二宮金次郎スタイルで3分の2まで読み進めても未だ自分が「何を」読んでいるのか分からないままだ。

家を出ると隣の家の高齢男性が庭仕事をしていた。少し歩くと斜め向かいの畑で高齢男性が鍬で畝を作っていた。老人が腰を曲げて畑仕事をする姿には些かの感動を覚える。ミレーが農民を写実スタイルで崇高に描いた理由が分かる。道を挟んで向かいの畑で高齢女性が土を耕している。そういえば家の窓から見える畑でも男性がトラクターに乗っていた。
みんな外に出て働いている。
実家に帰ったとき定年退職した父親がいつも外で農作業をしていたことを思い出した。うちには家畜もいるので雪の中でも家畜に餌をやるために合羽を着て外に出ている父親を見て感心した。全くコントロール出来ない自然に従事し生きるのに必要な糧を生み出す農業にこそ勤労という言葉が相応しい。ブルシットジョブほど高賃金な現代社会の歪さを一瞬考える。必要のために必要を生み出すような仕事で時間を埋めて勤労と言えるのだろうか、果たして。
畑仕事は「労働」という感じがしない。羨ましくもある。私にも家庭菜園が出来るくらいの土地があればなと思う。しかし土地に縛り付けられた人は管理すべき田畑がない人生を一度は夢見たかもしれない。
家の周囲は田畑ばかりなので、必然的に田畑の間の農道を歩くことになるのだが、そこかしこの畑で人が農作業をしていて、田舎の人間はうちの実家のように基本兼業農家なのかもなと思った。平日は仕事、土日は畑で基本労働している。一方東京に住んでいる伯父は休みの日は運動不足解消とストレス発散のためにテニスに行っている。母が「お気楽な生活。こっちは畑の草むしりだよ」と言っていたのが思い出される。田舎には田舎の良さが、都会には都会の良さがあると言うが明らかに都会の方が良くないか。田舎は労働と労働。都会は労働と娯楽。
しかし景色は絶対に都会より良い。快晴を切り抜く白い常念岳の美しさよ。北アルプスが一望出来る贅沢。開けた田畑に伸びる一本道の先に雪を被った北アルプスが凜として空と大地をきっぱりと分ける。清々しい。
自然は美しい。壮麗な風景はそれだけで人を癒やす。
夕暮れの赤く色づく美しい山際などは何回見ても感動する。ああ、こんな綺麗な景色が毎日見られるのだから田舎も悪くないと思う。

透明な水が流れる用水路には光の群れが泳いでいた。小学校低学年の頃はその光を追いかけて帰宅した。川の流れと等速度で歩くと水が止まって見えることもその頃発見した。笹舟を作り用水路に流して追いかける遊びもよくした。太陽の化身が水面で戯れているようで綺麗だった。水も春を喜んでいるようだ。
本を読み、遠景の山を見る。その繰り返し。動くものがあると目がそれを追う。歩く。歩く。歩く。
鳶が旋回している。2羽のハクセキレイが畑の上をバタフライで泳ぐように飛んでいった。可愛い鳴き声。川沿いに出ると羽音がして、本から視線を上げて音のした方向を見ると川の道路側に集まっていた3羽の鴨が放射線状にさっと離れ水面に丸い波紋が広がっていた。突然道から人間が現れて驚いたようだった。
それから通りがかった生け垣に囲われた豪邸の庭の背の高い木にシジュウカラが沢山いて高い声で鳴いていた。微笑ましい鳴き声。あまりに背の高い木は電線にかかっていた。中電に木を切るように言われるだろうなと思った。
いつの間にか鳥たちが戻ってきていた。冬の間見かけたのは烏と鳶くらいだったが。
どこを歩いていても野鳥がいる。一昨年読んだ乗代雄介の『旅する練習』を思い出した。あの小説でも主人公と姪が徒歩で旅している間野鳥が沢山出てきて読みながら「こんなに鳥いるか?」と思っていたが、車移動だと気づかないが川沿いや畦沿いを歩いていると人間よりも鳥を見かける頻度の方が多い。山が近いからかな。
畑の畦にオオイヌノフグリやナズナ、ホトケノザが咲いていた。特にオオイヌノフグリは沢山咲いていて、春だ!と思った。
オオイヌノフグリを見かけると春を確信する。良かった、もう冬には戻らないぞ。
外気温が15度を超えるとかなり幸福を感じる。長かった寒い冬がようやく終わった喜び。
小さな虫たちもちょうど顔の高さで群れていた。

1時間ほど歩いて、足が疲れてきて家に帰って昼食を作って食べた。アマプラで映画『太陽の子』を観て、それから足の疲れが回復したので今度は幡野広志の『なんで僕に聞くんだろう。』を持って散歩に出かけた。多発性骨髄腫を発病したカメラマンが寄せられた人生相談に回答しているのだが、タイトル通り「どうして病気のカメラマンに聞くんだろう」という内容の質問が多くて笑ってしまう。そして幡野さんも「自分の息子に相談されたつもりで」恋愛相談や不倫相談や進路相談なんかにも真剣に答えていて人柄の良さを感じる。質問者に非があると感じられる部分ついてはきちんと諭している点が爽快だし優しい。こういう悩み相談お答え系の本を読むとつくづく世の中には色んな人間がいるなと思う。
パン屋に寄ってパンを買い、珈琲を飲んで帰った。やはり1時間くらいかかった。
帰り道、コミュニケーション力がなく誰とも深い関係になったことがない23歳女性の対人関係の悩み相談と44歳女性の不倫相談とそれぞれに対する回答を読んだところで目のために遠くの常念を眺めているとふと、友達のことが思い浮かんだ。彼女のことを、彼女が私に親切にしてくれるからとか受け入れてくれるからとかは関係なく好きだなと思った。彼女に肯定されなくとも私は彼女のことが好きだろうと思えた。彼女の人間性やあり方が好きだ。
そして好きな人がいて同じ時を生きていることの幸せを感じた。好きな人がいることを実感出来て嬉しかった。
私が好きなのは「私が知っている彼女」、つまり彼女が私に見せてくれている一部分だけなのかもしれず、だからこそ人を信じるという行為に挫折はつきものなのだが、それを理解しつつもなお素直に好きだと思えたことが嬉しかった。
その友達だけじゃなく次々と好きだと思う人たちの顔が浮かんだ。出会って、また会いたい、何度でも会いたいと思わせてくれる人たちがいることに感謝した。ようやく萎縮した大脳前頭前野の樹状突起が再生され始めたのかもしれなかった。

近所の運動場に寄って誰もいないことを確認していたので練習着に着替えてボールを持って運動場へ。散歩途中見た時は誰もいなかったのに運動場に着くと男性がボールを蹴っていた。この運動場で成人男性がサッカーボールを蹴っているのを見たのは初めてだ。
しばらく壁相手に基礎練をしつつ彼の練習内容を眺め、壁相手にパスをしていたのでトラップの練習をやり終えパス練習に移る段になってパスに付き合ってもらえないかと声をかけ、一緒にロングパスを蹴った。
やはり人と蹴るのは楽しいし効率が良い。
パスを受ける前の背後確認、ファーストトラップで蹴りやすい位置にボールを置くことの意識、相手のどちら足へパスを出すのか、浮き球も練習できる。
対人練習最高。
何本か蹴って疲れが感じられてきた頃
「ちょっと休憩いいですか」
と相手が言ってくれたので寄っていくと
「高校生ですか?」
と聞かれて驚いた。
「いやいやいやいや全然、社会人です」
と慌てて否定。かなり嬉しい間違いではあるが。心の中で礼を言う。
普段どこでサッカーやっているのか聞くと、近場の体育館で毎週フットサルが催されていると教えてくれた。突然参加しても大丈夫とのことだったので近所だし今度行ってみることにする。日も暮れてきたので解散した。
練習に付き合ってもらえたし、有益な情報も得られたし、話しかけて良かった。
やはり春は良い。雪が溶け、ようやく土のグラウンドでボールが蹴れるようになった。


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