見出し画像

306.「なぜ?」を自分に問いかけるとどこに辿り着くのだろうか

非常に貴重な時間を過ごしました。

無論自分次第ではありますが、今後の人生の大きな契機となり得る、今まで生きてきた中でも有数の貴重な機会でした。

体験を通して、いろんな思いが巡ります。

体験前の期待と不安を、今でも手に取るように思い出せます。

このままで良いのだろうか。
もっとできるのではないだろうか。
頑張ってはいる。ただ、結果成果はどうだろう。
変化が遅いのではないだろうか。

挙げるとキリがないほど、焦燥感のような想いに駆られていました。

ただ、過去は変わりません。
このままで良かろうが悪かろうが、もっとできようができまいが、今までやってきたことはそれ以上でも以下でもなく、ただそこに経験として佇んでいるだけ。

ここから掲げるのは、未来です。願望です。ビジョンなのです。

そのときに考えていたことを、体験が終わった後ですが振り返ってみます。

「なぜ?」の問いかけは答え合わせと着火剤

成し遂げたいビジョンや未来があります。
こうしたい、という個人的な想いと、共に未来を創る仲間など、これからの僕に必要なことは多々あります。

人生のベストをそれぞれが自由に選択できること、そもそもベストを創り出すこと、実際にベストを選ぶこと、そしてそれを叶えること。
現状関係なく、一歩踏み出せるきっかけになる人間で在りたい。

自由な生き方の選択肢を提供できるようになりたいのです。

さて、しかしそれは「なぜ」なのでしょうか。

なぜ僕は、誰に頼まれたわけでもないのに大義名分を掲げたような気になって、他者や世界に干渉しようとしているのでしょうか。

なぜ自由が良くて。
なぜ仲間が欲しくて。
なぜ稼ぎたくて。
なぜ自分の願望を叶えたいのか。

今もめちゃくちゃ不満足というわけではありません。
まだまだできると思っているので、満足でもない。

ただ、満足ではないからという理由だけでは、僕の行動や想いの理由が証明できないような気がしていて。

他にもある。
何か根底の想いか、より鮮明で鮮烈な理由か、突き動かされるような願望が、きっとある。

「なぜ?」という問いかけは、今の自分の行為や想いの答え合わせと、今後の原動力につながる着火剤なのかもしれません。

なぜそのビジョンを達成したいのか?

人生の目的や目標、ビジョンがありますが、上記の記事ではビジョンを書き出しました。
目標設定は、いつまでに本を出版するとか、これぐらい稼ぐとか、こういう事業をする、これぐらい仲間がいる、など状態のことなのでマイルストーンのように適宜設定しています。

それはビジョンを叶えるために必要な目標。
ではそのビジョンはそもそもなぜ、成し遂げたいと思っているのでしょう。

自由な生き方がいい。
そりゃそうです。
ただ、自分一人だけで自由になってもいいのでは、などと考えると、思考は堂々巡りをしてしまいそうになります。

人それぞれ、願望はあります。

ではなぜ、願望を成し遂げたいのでしょう。
それについても、以前記事に書いたことがあります。

マズローの欲求五段階説。
自己実現の欲求が人には備わっています。
理屈的にはこのように何かしら説明はできます。

ただ、それだけでもないような気がします。

人生一度きりだから。
それは本当にその通りです。
まず何より、その認識を持つことで、できるかどうかはともかく望まないという選択肢はなくなります。

ただ、それも少し理由にしては重すぎる気もします。

僕は一体、なぜこの人生を良くしたいのだろうか。

より深く、思考に沈み込んでみます。

もしかしたらどこかで自分に期待をしている

子どもの頃は、あれだけ自由に望むことを学んできました。

将来の夢は、と聞くとなぜだか職業ばかり挙がるのですが、とにかく自由な発想で夢を描けました。
新幹線になりたい、でも良しとされていた時代です。

それが大人になってからどうでしょう。
夢ばかり見るな、現実を見ろ、目の前の仕事を頑張れ……。
急に足元ばかりを見ざるを得ない状況に立たされます。

全員ではないですが、何にせよ夢を見るということを、未来のことを考えるということをしなくなっていく人が多いように思います。

僕もそんな状況から、変化をしてきました。
急激な変化ではなく、徐々に広げながら変わってきたという感覚です。

急にビジョンや願望を突きつけられても、いや僕には無理なんで、となって終わりだったでしょう。

しかし僕は、少しずつビジョンや願望を開いてきました。
人に出会い、本を読み、考え、決めて行動してきました。

その過程で、最初は手の届かない遠い未来だと思っていたことが、もしかしたら自分にもできるかもしれない、自分にもほんの少し叶えられるかもしれない、あの頃のように未来を描き、野球をやっていた時のように本気で目指すという感覚がまた味わえるかもしれない、そう感じるように変化してきました。

自分に期待をするようになったのです。

急に期待するようになったわけではありません。
もちろん広がれば広がるほど不安は付き纏ってきました。
そしてその不安の大きさと全く同じ大きさの期待が、少しずつ自分の中に芽吹くように生まれてきたのです。

さらに同時に、願望が現れてきました。膨らんだ期待の中身です。
そして、ビジョンが明確になってきました。

それらの理由を、考えるようになりました。

僕は、本が書きたい。
魅力的な物語を紡げるようになりたい。
学生時代からのそんな夢ですら、理由を考えました。

総じて僕は、人は豊かで人生は自由であることを、自身を通して伝えたいだけなのかもしれません。

考えて答えが出るものでもないけれど

結局、体験前にいくら考えても仕方ありませんでした。
自分の頭で考えても答えは出ません。
そもそも出ないから考えているのです。でも変わらない自分がいくら考えても変わらない。

ただ、そのプロセスを踏んでいることはとても大事だと感じました。
何も考えず答えが出ないのとは、天と地ほどの差です。

「なぜ?」と問いかけ続けても、答えが出るとは限りません。
深掘りした結果が答えだというわけでもないかもしれません。

ただ、思考のプロセスは残る。

これを広げていくことが、学ぶことだったり体験をすることだったりすると思います。

「なぜ?」と自分に問いかけてもどこに辿り着くかは全く不明ですが、辿った軌跡は残ります。

その軌跡を持って体験に向かったので、今回の僕の場合は考えていて良かったな、という結論に至りました。

さて、自身に問いかけてみてください。

なぜ、今頑張っているのでしょう。
頑張ろうとしているのでしょう。

なぜ、それを叶えたい、達成したいのでしょう。

なぜ、この大切な人と組んでチャレンジしたいのでしょう。

その答えたちは、さらになぜ生まれてきたのでしょう。

考えることは最も過酷な仕事だ。
だからそれをやろうとする人がこんなにも少ないのだ。

ヘンリー・フォード

考え抜きましょう。
労働に逃げずに、考えましょう。

そうして導き出された願望が、きっとその身体を突き動かしてくれるはずですから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?