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【ヨガ話】奪われたくない!(アスティヤ)

ヨガ哲学で生き方・考え方を振り返ろうシリーズパートⅢである。控えるべきこととされる禁戒(ヤマ)の中でも、とりわけ私が日頃、気になって気になってしかたないもの、それがアスティヤだ。ひとに対してできるだけしたくないし、ひとからできるだけされたくないと思っている。どっちかっていうと「されたくない」の方が強くって、されると自分が軽視されてる感じがして腹が立つ。さぁ、今日ももっと具体的に個人的にいってみよう。

アスティヤの定義

盗まないこと。「不盗」なんて漢字で書かれることもある。ヨガ的には12年間盗まなければ、ほしいものが全部やってくる、らしい。ちなみにこの「12年間続ける」と、というやつは、ほかのヤマにもあるそうで、12年間アヒンサを続けると敵がいなくなる(周りから敵意がなくなる)、12年間サティアを続けると言ったことがすべて現実になる(ほんまかいな)、てな具合で。

この「盗む」という行為、目に見える物質のことだけではない。というか、むしろ目に見えないものを盗む方が巷に溢れていて私の悩みのタネである。特に「時間」と「注意」を盗まれることが本当に気軽に起きている気がして、ほかにも「経験」とか「御縁」とか「やる気」とかも結構簡単に盗まれるというか使われちゃうよねぇ、と思ってげんなりする。

私の時間は私のもので、あなたの時間はあなたのものだ

というタイトルで過去に記事を書いている。もうずっとこのテーマは私の仕事で鳴り続けている警鐘なのだけど、こういうのって響くひとはもともと問題がないかあっても軽くて、重大なひとには届かないから腹が立っちゃうんだよな。ぷんすか。

たとえば、コミュニケーションツールの中でやたらと電話や対面を重視するひとがいる。たしかに微妙なニュアンスを読み取るとか、信頼関係構築の初期段階だとかは、メールやLINEなどの文字だけよりも声や表情からもできるだけたくさんの情報を得たい。メールより電話、電話よりビデオ通話、ビデオ通話より対面の方が情報量が多いのはそのとおり。だけど、いつでもそれが必要・最適ってわけではなくて、時と場合によろう、と思う。そして電話や会議は自分も相手も時間を消費するのだ。これが盗みになっていないか。働くすべてのひとに考えてみてほしい。

電話かけてから話すことを考えたり、何を話す・決めるのか決めずに会議を招集したり。議題の順番が考えられていなくて何度も議論が行ったり来たりして、手戻りが出たり誰かを待たせたり。会議中にひとりでできることを始める、ほかからの電話に出る、会議メンバーの一部しか関係しない話題で盛り上がる。これ、みんなひとの時間を盗んでいると思っていて、私はすごく気になるのだ。せめて、自分はしないように対策を練る。電話は2人分の、会議は参加人数分の時間を使っている。それ以上の価値を、成果を生み出せているか。生み出す用意はしていたか。ひとの時間を使うことに対して、もっと敏感でありたい。相手の時間を貴重なものとして尊重したい。

そして同じくらい、私の時間も尊重してほしい。私の時間を奪わないでほしい。これは私のものだから。

注目されたい!もある種のドロボー

ひとの注目をひく、それも心配してもらうとか気にかけてもらうための注目を集めることも、ある種の盗みであり、アスティアに反しているとされる。これ、まじ、若かりし自分すぎて恥ずかしいやつである。

懺悔すると、今振り返ればあれは「私、具合が悪いのに頑張っててエライの」アピールだった、と思う若気のいたりがある。具合が悪くなるほど働くなど、自己管理ができず「私は仕事ができません」と宣伝して歩いているようなもので、無能をさらけ出して非常にお恥ずかしい限りなのだが、当時は「健気に頑張っているから労ってほしいし褒めてほしいし感謝されたい!」と思っていた。そして「具合が悪くてかわいそうな私を心配してほしい」と思っていた。口には出さなかったし、認めたくないけど。

ひとの心配を集めるのは立派な盗みなのだ。その意識・エネルギーを、本来向けるべき方向に注いでほしいと思えるようになったのはいつからだろう。演劇制作の仕事において、創作チームに制作面の心配をかけたくない、創作に打ち込んでほしい、という思いは結構若い頃からあった気がするけど(できていたかは別として、そういう気持ちは持っていたのよ)、個人としての大森晴香を気にかけてほしい、という個人的な思いから解放されたのは40の声が聞こえてからな気がする。そしてひとの気を引かなくなってからの方が、自分の注意も本来業務の方に正しく向くようになったんじゃないかと思う。心配してほしい、注目してほしい、という意識に分散しなくなった、というか。

そういう稚拙な自分をやっと卒業できてきたばかりなのだけど、似たようなことを他者がやっているのを見ると、こそばゆいというかもどかしいというか、指摘したほうがいいのかもやもやする。かつての自分を恥じているから、他者の似たような態度に対しても、優しさや心配よりも厳しい気持ちが勝ってしまう。具合が悪いのを隠せとは言わない。でも、ひとに心配をかけている=ひとの注意を奪っていることを自覚したほうがいいし、自分の集中力も分散してしまっていることも自覚したほうがいい。こんなこと、10年前の自分に言ったら泣いちゃいそうだけど、知った方が本人にも周りにも幸せなんじゃないかな。

集中に水を差されないための工夫

前にも書いたけど、私は日頃、スマホの通知を切っている。メールもLINEも私が見たいときに見て、考えて、返す。仕事してる最中はパソコン画面に通知が出るので、さほど大きく取り遅れることはない。そしてパソコンを閉じているときは業務時間外なので、タイムリーな返信を求められる謂れはない。というか、それでも私はレスが早い方だと思う。これまで複数の協働者から言われているので、多分、わりと、信用していいと思う。

頻繁に鳴るスマホをいちいち触っていたら、集中力など続かない。私の時間が細切れになる。私は演劇の中でも「制作」という、より多くのセクションや外部と関わる役割を生業としている。これらにすべて即レスしていたら何も落ち着いて考えられないだろう。というか、考えられなかった。思考があっちこっちするし、突然仕事の優先順位が入れ替わるし、仕事に振り回されて目が回っていたと思う。今だって仕事が混んでくると目の回るようなというか、本当にぐるぐるな感じであっぷあっぷしてしまうことはあるけれど、自分の集中できる環境は自分でつくるのだ、と思えるようにはなった。そのひとつの方法がサイレントだし、ほかにも日々培ってきた仕事の小技みたいなものが私を助けてくれている。

アスティアを守って手に入れたいもの

12年間守ったら何でもほしいものが手に入るよ、と言われるアスティアだけど、守ったすえに何がほしいのかな、と立ち止まってみた。私がほしいのはお金とか服とかアクセサリーとかじゃなくて、なにか特別な経験とか名誉とかもちょっと違っていて、幸せな時間、なのかもしれないなぁ。自分のための自分を慈しむ豊かな時間。もっとヨガを極めたいとかバレエも上手になりたいとか海外旅行も興味があるし勉強したいこともあるしお部屋の模様替えもしたいのだけど、これって全部、自分のための時間を持ちたい、ということなのかも。アスティアの先にあるだろうか。あるかもしれない。ちょっと光が差した気がする。

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