見出し画像

【ヨガ話】誰も傷つけない生き方を探す(アヒンサ)

前回のnoteでヨガは哲学・生き方だ、的な話を書いた。やっちゃダメなこと(ヤマ)とやったらいいこと(ニヤマ)がまとまっていて、どれも普遍的なことばかりなんだけど、守れているかはまた別の話、みたいな。

というわけで、ひとつずつ掘り下げてみる。ヨガ哲学についての私なりの理解を明瞭にするために。そして血肉にして実践したそのさきの人生が素晴らしいものであるならば、それをつかみとるために。

アヒンサの定義

かの有名なガンジーさんも言っていた、非暴力不服従の前半部分である。ちなみに「ア」はサンスクリット語では否定の接頭辞だそうで、日本語でいうところの「非」とか「不」とかを意味するそうだ。

こないだも少し書いたけど、物理的に他人を殴る・蹴るだけが暴力ではない。いわゆる「言葉の暴力」もあるし、暴力の方向は他者とは限らなくて自分に対してだって成立しうる。アヒンサの実践、私はまだ道半ばな自覚があるけど、知っていれば意識できる。意識できれば変わる可能性もある。

寝ても寝ても寝足りない

わりと最近の話である。春眠、暁を覚えず過ぎて引くくらい眠い日が続いた。睡眠「時間」が足りないはずはない。だって予定がなければ何時間でも寝ていたし、ひどいときは予定をずらしてでも眠っていた。そんなに寝ているのに夜も眠れた。寝つきはすこぶるよい、というか、布団に入ったあとの記憶がほとんどない。

先月が忙しかったからかな、と思っていた。睡眠はとっていたけど、何度か休日を返上したくらいの忙しさではあった。でも、それにしたって寝すぎ。1日9時間も10時間も寝てるのに眠いのは異常、なにかビョーキが隠れてるんじゃないか。そんな不安を母に吐露したところ、言われたのがこちら↓

夜中に食べるの、やめたら?

ぐうの音も出なかった。その頃の私、なぜだか寝る前におやつを食べていた。お腹が減ったとか、すごく美味しそうで食べたくなったとか、そんな理由はなにもなくて、ただ口寂しいというか本当に「なんとなく」食べてしまう。

過食も拒食も自分への暴力だ、と習ったのだけど、夜中のおやつだって自分の身体を慈しんでいたら食べないはずだ。身体に悪いことをしてるのに調子が悪いとぼやくなんて、それこそ寝言は寝て言いたまえ、である。以来、寝る前のおやつは止めた。今でも寝ることは大好きだけど、夜ちゃんと寝てるのに昼間も意識朦朧、みたいなことは徐々に減って今にいたる。ちなみに体重は2kg増えて1kg減った。元に戻るまであとちょっと。

その働き方、ほんとに仕事最優先?

不惑も過ぎてだいぶ心臓もタワシになったものの、それでも時折、仕事が多すぎて途方に暮れることがある。仕事が終わらないときの解決策は「①ひとを増やす」「②仕事を減らす」「③効率を上げる」の三択だと思っていて、できれば③を目指したいんだけど、そういうときってもう忙しくて疲れているから効率を上げるどころか減速気味。煮詰まってくるとミスが出たり手戻りが出たりで、③に逆行すらする。

じゃぁどうするかっていうと、時間をかけることでカバー、つまり長時間労働して終わらせるという手段を取りがちだった。深夜までパソコンに向かい、眠くてぼーっとする頭を無理矢理たたき起こして朝までになんとか終わらせる。あるいは趣味とか家族との時間を諦めて仕事に回す。24時間365日、すべての時間を仕事に振り向けることが、仕事のためだと思っていた。

だけど、と今は思う。その働き方は、何を生んだのか。疲れていてなんだか具合も悪くて、私の気持ちはささくれていた。そしてそこまでしてやった肝心の仕事のクオリティはなんだか微妙。こんなに頑張ってるのに。好きなことも我慢して、ありったけの時間と体力を注ぎ込んでいるのに。満足な仕事ができないストレスで落ち込むこともあったし、自分以外に原因を見つけたくて誰かのせいにできないかを考えることもあった。よしんばひとのせいにできたとして、そのひとを責めたところで何も産みはしないのに。

本当にいい仕事をしたかったら、「いい仕事ができる自分であること」、「関わる人がいい仕事をしやすい・したくなる自分であること」。身を削るのは自分への反アヒンサで、だからといって保身のためにひとを責めるのはそれこそ他者への反アヒンサだ。アヒンサの教えを守ったら、自他ともに質の良い仕事ができる、はず。

無礼という暴力

昨年末くらいからハラスメント対策の勉強をしている。その中で出会った今年度のワタシ的ベストブックである「Think CIVILITY『礼儀正しさ』こそ最強の生存戦略である」を全人類にオススメしたい。

ひとは、無礼な態度をとられていると感じると、仕事にかける労力を48%、時間を47%、質を38%も意図的に下げるのだそうだ。私の場合、蔑ろにされてるなぁとか、梯子をはずされたなぁとか、私の仕事を軽く見られてるなぁとか、そういう失礼に遭遇するとやる気が一気に3%くらいになる。でもそんな失礼なひとのせいでパフォーマンスが落ちるのも癪なので、あーあって思いながら仕事はする。あーあって思ってるから気も腰も重い。

翻って、自分は失礼をはたらいていないかと振り返る。私は、仕事の目的を理解せずに間違え続けるひと、というのが苦手である。なぜそのやりかたではまずいのかを何度も伝えているうちに、うんざり感が顔に出てしまう。でもそれって、私がほしい未来にはつながらないんだよね。相手に求める役割を果たしてもらうためには、その態度で伝えることが効果的に作用するとは思われない。だから、心のなかでアヒンサを思い出す。知っていれば、踏みとどまれる。はず。

ちなみに自分が攻撃を受けたときに反射的に言い返してしまうこともあるけど、それはやり返したい欲求を満たすだけで根本解決ではない。相手に態度や行動を改めてもらいたいとか、発言を撤回して謝ってほしいとか、そういう「望む反応」にはつながらない。怒ること自体はしかたないよ、だって自然な感情だから。だけど、傷つけられたら傷つけ返すのは暴力の連鎖で、誰も幸せにならないんだ。私も含めて。だから、言い返す前にちょっとだけ考える。その言葉は、なにを狙って発するのか、と。相手を怒らせたいのか、気づかせたいのか、反省してほしいのか。考えると、出力が変わる。ような気がする。まだ修行中。

アヒンサが教えてくれたこと

暴力は望む世界を作りはしない。相手を負かすことよりも、問題を解決することのほうが大事だから。若いころは負けたくない気持ちが強かったけど、最近は勝ち負けなど問題ではなくなった。コミュニケーションがアグレッシブになってしまうと、相手は出してくれるものも出してくれなくなる。友好的であれば得られたはずの協力を無にしてまで勝つことに意味などあるだろうか(いやない)。

ここに書いた私の話はごく個人的な、ひとりの人間の話だけど、アヒンサの素晴らしさをもっと多くの人が腹落ちして実践したら、もっと世界は平和で豊かになる。今もどこかで奪い合い、敵対しているひとたちにも、どうか、届きますように。そして、どこかの誰かがちょっとでもアヒンサを心に留めてくれたら、その分だけ世界は幸せが増すと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?