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【ヨガ話】ヨガ哲学を学ぶと生き方は変わるのか、の実験をはじめるよ

ずいぶんと間が空いてしまったけど、また書きたい欲求が膨らんできたので書いてみよう。最近の私は毎週の「光る君へ」を楽しみにしながら日々の労働にいそしんでいる。労働にいそしむって、頭痛がいたいみたいだね。

最近、ヨガ哲学の復習と、どうしたらおもしろい演劇を作っているひとたちが報われるのかっていう話と、仕事を「うまくやる」ために考えていることの3つを書きたい気持ちが順繰りに沸いている。ので、書けそうなものからアウトプットしよう。

こないだひょんなことから、ひとはなんでヨガにはまるのか、みたいな話になった。呼吸がしやすくなるとか身体が柔らかくなるとかっていうエクササイズ的な話をまずはしたのだけど、それよりももっと、ヨガは生き方・哲学なんだよねってことを話しながら急に思いだした。たとえば「盗む」ことは罪だなんて大概のひとは知っていて、物理的な盗みはめったにはたらかないと思うんだけど、じゃぁひとの時間とか注目とかを盗んでいないかっていったら結構盗んじゃってるよね、みたいな。そんな話をしたら、わーそれ、おもしろい!はまりそう!!というリアクションが返ってきた。

そう、私はこれにはまったんだ。ヨガの考え方。ヨガ哲学。だけど悲しいかな、あんなに感動して目が開かれた思いで学んだ八支則もいまやすっかりうろ覚え。うろ覚えじゃ実践など結びつかない。ということで、ちょっと復習の時間を作ろうと思う。さしづめ、スワディヤーヤの実践ってとこかな。ヨガを知らない人が読んだらちんぷんかんぷんだろうなぁ、スワディヤーヤ。

かつて口伝だったヨガをパタンジャリさんという聖者が「ヨガ・スートラ」という哲学書にまとめたんだそうな。そこには有名な「八支則」というヨガ実践の8段階、みたいなものがあって、私が最初にヨガに対して持っていたヨガ=おしゃれ体操、みたいなイメージはこの8段階のうちの3段階目の「アーサナ」をさしている。「アーサナ」の前には生きていく上で控えるべきこと(ヤマ)と推奨されること(ニヤマ)があり、後には呼吸とか感覚の制御、集中、瞑想、三昧(悟り、忘我)がある。

ヤマ、ニヤマは普遍的な教えが詰まっている。これが「よい」と思えないひとは古今東西おらんやろ、と思うくらい広くあまねく常識。だけど常に実践できているひとっているんだろうか。深堀はおいおいするとして、今日はざっくり概要だけおさらいしよう。

ヤマ:禁戒・控えるべきこと

ヤマにはやっちゃダメなことがまとまっている。で、たぶん、これらがやっちゃダメであること自体に異を唱える人はいないと思う。だけど、常に守れているかって言ったらわかんないよね、と私は思っていて、そりゃ他人を殴ったり物を盗ったりはしないけど、自分を蔑ろにすることが「アヒンサ」に反するのだとしたら長時間労働はもはや暴力だし、とんでもない時間に連絡をしてひとの時間を奪うのは「アスティヤ」に反しているわけ。つまり、日常的に意外なほどカジュアルに破りがちな禁戒なのだ。

ニヤマ:勧戒・やるべきこと

やっちゃダメなことの次はぜひやろう、のコーナーである。書きながら、「今あるものに満足する(サントーシャ)」とかもう全然実践できてないなぁって思う。

  • シャウチャ:清浄・清潔を保つ

  • サントーシャ:足るを知る

  • タパス:鍛錬・修行

  • スワディヤーヤ:学究・学習・自己探求

  • イーシュヴァラプラニダーナー:神への信仰・神への専心

ちなみに、ヨガは宗教ではなくて哲学と科学だと思っているんだけど、ここに「神」が出てくるんだよね。ひとりで学んでいたときはここだけ理解不能、突然普遍性がなくなったと思ってたんだけど、ヨガ合宿で学び直しをして、万物に感謝する、自分も大いなる自然や時代の一部であり、自分のちからではどうにもならないことを受け入れる必要がある、と考えれば、あー、たしかにみんな等しくやったほうがいいことだね、と腑に落ちた。

これからの展望

今日はざっくりおさらいとして、この先ひとつひとつを身近な事例とか経験とかに照らし合わせて血肉にする作業をしていくつもりだ。最近は全然書いていなかったからするするっとは書けないかもしれないけど、これをやったらより大きくて豊かな自分に会えるような予感がする。感受性は豊かでありながら些細なことでは揺るがない、余裕のあるおとな。に、なれるかな。

写真は昨年撮っていただいたヨガインストラクター資格取得記念写真です。いい顔してんなぁ。ほんとにほんとに楽しかったのです、撮影が。
(撮影:保坂萌/ヘアメイク:黒田はるな)

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