見出し画像

【ヨガ話】道徳的な理由だけじゃない、私が「嘘」を避ける理由(サティア)

ヨガ哲学で生き方を見直そうシリーズの第2弾。「控えるべきこと」とされるヤマ(禁戒)は、ひとつひとつは本当に至極真っ当な常識的なことだけど、いつでもどこでも守れてるかってのはまた別の話だよ、なのだが、私が比較的守れてるんじゃないかと思ってる禁戒が「サティア」である。ほんとかな。いってみよう。

サティアの定義

嘘をつかない、とか、真実を言う、とされている。嘘をまったくついたことがないとは言わないけど、どれだけ嘘にならないようにできるか、に腐心してきた気はしている。あぁでも「真実を言うことができないから嘘にならない言い回しを考える」みたいなことを繰り返してるかも。え、これってもしかしてサティアじゃないのかな。もう少し具体的に考えてみるぞ。

誰かのために嘘ではないラインを探す

真実はときにひとを傷つける。「真実を言うことができないから嘘にならない言い回しを考える」はこういうときに発動する。演劇制作の現場だと、たとえば誰かの失敗で開演時間を遅らせる必要が生じたときなどがこれである。お客さんに対して「◯◯さんが遅刻したため」とか、「◯◯さんが△△の用意に手間取ったため」とは言わない。だって本当の理由がわかったからと言って、それは誰も救われも喜びもしないから。お客さんからしたら知りたくなかったかもしれないし、ミスをした本人はいたたまれないだろう。だけど、どのくらい遅れるのかはきちんとお客さんに伝える必要がある。終演後に予定があるひと、特に飛行機や新幹線の都合があるお客さんにはそれを知らされないのは死活問題だし、そうでなくてもなにも知らされずただ待たされるのはおかしい。

こういうとき、どこまで正直に言うかと同時に、「嘘はつかない」ラインを考える。人為的ミスのときに機材トラブルが~、とか、電車遅延の関係で~、などというのは嘘になってしまう。定刻開演できそうにないのに「間もなく開演します」を連呼するのも嘘。これがベストかはわからないけど、私がそういう場に居合わせたなら、「開演準備にお時間をいただいている」ことへのお詫びと、開演時刻の見通しを伝えるだろう。それによって困ったことになるお客さんがいらっしゃるなら個々に向き合う。理由は敢えて述べない。賛否ありそうだけど、私はそうする、と思う。

書いてて思ったのは、サティアも大事なんだけど、アヒンサを守りながらのサティア、なのかも。上記よりさらに深刻な、誰かにとって「墓場まで持っていきたいくらいの秘密」とか、「伝える相手を選んで慎重に伝えたい真実」があったとして、それを無闇に開示させたりおおっぴらにしたりするのはやっぱりサティアの前にアヒンサの問題がある。嘘はつかない。だけどすべてをつまびらかにするとは限らない。そういう在り方で、私はこれからもバランスをとると思う。

言いづらいことを言う

今度は自分のミスの話。私はしょっちゅうミスをする。間違えたことを伝えてしまったり、伝える必要があった相手が抜けていたり、誤字脱字衍字もひとのものは見つける癖に自分のは見つからない。ダブルチェックをひとに頼んだり、情報共有をまめにしたりしてできるだけ予防して、ミスが起きても傷が浅いうちにリカバーできる体制を心がけてはいる。それでも「しまった!」ということをゼロにはできない。

自分のミスに気づいたとき、ひとにバレないうちになんとかしようとして、なんともできないまま時間が過ぎていって、ことが大きくなってから露見する。新卒ポンコツ営業マンだった頃は、そういう失敗をたくさんした。劇団プロデューサー時代だって、ひとりでは解決できない状態になってからやっと周りに正直に話して助けてもらったことが多々。

ミスが事故になる前に正直に開陳して、ひとの力も借りて解決できるようになったのは、たぶん、ひとりシャチョーになってからだ。それまでは自分のミスは自分で解決できると過信していたのかもしれない。ひとりシャチョー=いわゆる外注制作として他社に雇われる身になって、私のミスを私には解決できず、雇い主に頭を下げてもらわねばならない立場になった。自分の不手際で迷惑をかけるのは不甲斐なくて申し訳なくて、今でも時折隠したくなる。そういうとき、自分の選択が自己保身とかごまかしを目的にしているのか、公演をよりよくするためとか事故から守ることが目的なのかを自問する。前者が目的で隠したくなってるときは、意を決して本当のことを言う。

自分を守るための嘘やごまかしは、本当の意味では自分を守ってはくれない。後ろめたい気持ちのせいで行動や思考が鈍ったりするし、バレたときのダメージが自分から伝えたときとは比べものにならない。言いづらくても傷は浅いうちに。

嘘はめんどくさい

つらつらここまで書いたけど、そもそも私は嘘をつくのが苦手である。というか、嘘をつくための労力がめんどくさい。嘘は記憶力がよくないとつきとおせない。嘘を成り立たせるためには辻褄が合うように情報操作を続けなくてはいけなくて、そういうことに頭を使うのがすこぶる面倒である。

『ラン・フォー・ユア・ワイフ』という名作コメディがあって、そこには嘘をつき続ける主人公が登場する。ときどき自分のついた嘘を忘れてつっこまれたり、苦し紛れに辻褄を合わせてまた新しい嘘をつくはめになったりを繰り返すんだけど、嘘をつくってつまりそういうことだ。自分のついた嘘を忘れてはいけないし、その嘘を成立させるために咄嗟に頭を回転させなくちゃならない。そんなに頭を使うのに、得られるものはその場しのぎでしかないなんて、コスパが悪すぎる。あれはフィクションだから安心して笑えるんであって、実生活ではノーサンキューだ。そういう理由もあって、私は嘘を極力避けている。全然道徳的じゃなくて聖者パタンジャリさんにはちょっと申し訳ない気もするけど、結果的にサティアなんである。

サティアがもたらしてくれるもの

私は極度のめんどくさがりである。そして上述のとおり、嘘をつくのはめんどくさい。ヨガは、必要最小限のちからでアーサナ(ポーズ)をとる。余計なちからを抜くことでバランスがとれるようになる。不安定でぐらぐらしてしまう日もあるけど、そういうときほど力みを手放して、必要最小限のそのとき使うべきところにだけ適切な方向へ力を向けるのだ。できるだけ小さな労力でできるだけ大きな成果がほしいずぼらな私。めんどくさがり、という自分の特性を自虐的に言いながら、でも、心のどこかで肯定してあげたいとずっと思っていた。言い換えれば効率のよい選択ができるってことだし、だからこそサティアを守れるとしたら素敵なことかもしれないよね。

そして、自分が正直・誠実であれば、周りにも正直・誠実が集まってくるように思う。正直・誠実であることをよしとして、率直でさっぱりしていて、それでいて愛とリスペクトのあるコミュニケーションが生まれる。それができないひとたちとは私は息が合わないので、遅かれ早かれ互いに距離が生まれていく。すべてのひとと仲良くはなれない。すべてのひとに好かれることもできない。それでいい。それがいい。

サティアは、私を生きやすくしてくれる考え方なんだな。今回の振り返りでつくづく思った。これからも自分の芯にもっていこう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?